6月25日は尊王攘夷の日
今日は6月25日です。6月25日は1863年に江戸幕府が朝廷に攘夷決行を約束した期日でもあります。この期日に長州藩が関門海峡で外国船への砲撃を開始して下関戦争へと発展したのは有名です。この頃に欧米列強諸国の間では秘かに日本への侵攻計画が立てられていました。
一歩間違えば日本が植民地となりかねなかった軍事計画とは、どのようなものであったのでしょうか。東京大学史料編纂所教授の保谷徹氏による『幕末日本と対外戦争の危機』などを参考にしながら解説していきます。
(欧米列強の連合軍によって占拠された下関砲台)
国内の尊王攘夷運動の高まりと列強諸国の動き
黒船来航によって一度は開港した江戸幕府ですが、国内の尊王攘夷運動の盛り上がりによって方針転換を余儀なくされます。長州藩と土佐藩の尊王攘夷派が三条実美らの公卿に働きかけて将軍徳川家茂の上洛を画策します。1863年に徳川家茂は将軍としては徳川家光以来の約230年ぶりとなる上洛を行って孝明天皇に上奏します。孝明天皇は上洛した徳川家茂に攘夷の勅命を出し、幕府は6月25日(旧暦5月10日)に攘夷決行を約束することになりました。
このため幕府は開港していた横浜を再び閉ざす鎖港の方針を決めて諸外国へ通達しますが、列強諸国に拒否されています。長州藩は攘夷決行日であった6月25日に関門海峡を通過するアメリカ商船へ砲撃を開始します。さらにフランス通報船やオランダ艦艇への砲撃を行っています(下関事件)。この報復としてアメリカとフランスの2国艦隊が下関を砲撃しました。8月には生麦事件をきっかけとして薩摩とイギリスとの間で薩英戦争が起きています。薩英戦争ではイギリス艦隊が薩摩の反撃によって大破1隻中破2隻・旗艦の艦長が戦死するなど大損害を受けました。
江戸幕府の横浜鎖港の方針表明・下関事件・薩英戦争などの日本開港の情勢悪化を受け、西洋列強は日本の派遣する軍備を増強しました。1863年8月26日に横浜に集結した列強の軍備は軍艦22隻・火砲262門・兵力5,910名の強大な兵力となりました。
この頃に西洋諸国の中で内々に日本侵攻計画が議論されています。イギリスやロシア・フランスだけではなくプロイセンのビスマルクも検討していたとする史料が残っています。この記事では特にイギリス陸軍が立てていた戦争計画を紹介していきます。
イギリス陸軍省で検討されていた日本侵攻計画
イギリスでは日本へ派遣されていたイギリス艦隊のキューバー提督が、横浜鎖港や薩英戦争など緊迫化する日本国内の情勢を本国政府に書簡で報告しました。この書簡は10月29日にイギリスに到着し、ラッセル外相が有事の対応検討を開始します。さらに陸軍省と海軍省で日本と開戦した場合の計画が立てられることになりました。
陸軍省では清とアロー戦争を戦い日本駐在経験も持っていたミシェル少将が戦争計画を立てました。「日本における我々の立場に関する軍事覚書」と題したミシェルの書類は12月1日に作成され、翌1864年1月26日に陸軍省へ提出、さらに海軍省や外務省に回されています。この文書が現在も残されており、イギリスがどのように日本と戦う計画でいたかを知ることができる史料となっています。
ミシェルはこの覚書の中で対日開戦の想定状況を3つに分類しました。
4.日本において我々が置かれるかもしれない、戦争になりそうな状況は3つあります。
第1に、特定の大名が我々に反抗するかもしれません。
第2に、ミカド(Mikado)と大名の一部が敵対するかもしれません。
第3に、日本政府が我々に対して戦争を宣言するかもしれません。(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
特定の大名と敵対した場合は幕府に処理させる計画だった
特定の大名家とイギリスが敵対した場合には、ミシェルの文書では大名の領国が沿岸か内陸かで判断が分かれています。長州藩の砲撃行為を念頭に置きながら海軍による制圧と海上封鎖で大名家を孤立させることが考えられていました。
一方、内陸の場合は日本の地形は行軍に適さず多大な経費も掛かるため、幕府に責任を取らせて鎮圧させようと考えていました。攘夷派の大名が反抗しただけでは領国が孤立するだけで住民が困窮するだけであると想定されていました。
このように、内陸部の大名への攻撃は多大な困難と多大な経費をともなう方策であり、主に被害を受けるのは不遇な住民たちということになる可能性が非常に高く、その間に得られる利益は極めて疑わしいでしょう。
その一方で、政府が大名の行動に責任を取らせることは、ダグラス家の侵掠やアーガイル家の土地でのイングランド人虐殺の責任を取らせるのと等しいのではないかと思われます。
(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
ミカドと敵対した場合には大坂へ侵攻することが計画された
ミカドと大名の一部が敵対した場合、兵庫へ上陸して大坂まで進軍する計画が検討されていました。
すべての港と内海の封鎖をまず最初に試みるべきかもしれません。
それが行われている間に、艦隊は大坂まで手探りで進むことになるでしょう。もし封鎖の効果が無かったならば、そこで瀬戸内海貿易の巨大な中心地たる大坂の攻略が必要となります。
この町はミカドの首都ミヤコ(Miako)の港であり、ミヤコは最終的に攻略しなければいけないかもしれません。…上陸は兵庫で行うべきです。ここは作戦基地となるでしょう。…
横切らなければならない川はいくつかありますが、川底はしっかりしており、深さはそれほどではありません。
船橋は必要でしょう。大坂と内海の占領はミカドを屈服させるかもしれません。
(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
まずイギリス海軍が瀬戸内海を封鎖し、兵庫にイギリス陸軍が上陸して基地を築けば大坂の占領は容易いと考えられていました。ミシェルは貿易や軍事の拠点としての大坂の重要性を認識しており、兵庫から大阪にいたるまでの川には船橋を設置して進撃していくことが検討されています。そして大坂と瀬戸内海封鎖によって朝廷を屈服させることが検討されています。
私が日本にいた時に知り得た範囲では、ミヤコは大坂から35マイルほどにあります。…
町や村の家並みは切れ目なく続くようです。非常に長い橋がかけられた巨大な川と運河が道に交差し、日本最強の城塞が大坂の出口を閉ざしています。
ケンペルによれば、ミヤコは要塞化されていません。(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
(江戸城で西洋のダンスを披露するケンペル。『日本誌』より)
日本最大の城塞とは大坂城を指すものと思われます。巨大な川と運河とは大坂の淀川を指しているものと思われます。京都は要塞化されていないことをエンゲルベルト・ケンペルの証言として挙げていますが、ケンペルは17世紀に日本に滞在したドイツ出身のオランダ東インド会社の医師で、1692年に出島から江戸まで赴いて将軍と謁見して『日本誌』を書いた人物です。17世紀の古い情報を頼りにしていたように、ミシェルは地理情報の乏しさを懸念していました。
しかし、見込みとしては数千の兵員追加が必要とされるでしょう。おそらく5,000人。そして残された問題は、大坂攻略に従事する兵力のほかに、その大兵力を中国か日本か、どこかの補給所に用意し、全ての輜重を即乗船できるようにしておくか、あるいは、大坂を占領後、新しい遠征軍がインドで組織され、それが日本へ派遣されるまで退却することが得策と考えるのかということです。
(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
大坂攻略の後に京都への進撃のために必要な兵力は不確実情報としながらも5,000人規模の追加兵力が必要と主張しています。京都への進撃が遅延した場合、インドで編成した兵力が到着するまでは撤退するべきとの見解も示されています。ミシェルが懸念したのは糧食と物資調達手段の確保でした。内陸にある京都を攻撃するためには輸送手段に乏しく、戦費も掛かることから、遠征可能な兵力が到達するまでは大坂と瀬戸内海の制圧で朝廷を屈服させることが望ましいとされていました。
江戸幕府との戦いは江戸周辺での戦闘が想定された
ミシェルが第3のケースとして想定していた江戸幕府が宣戦布告をしてきて戦争になるケースです。第3のケースでも海上封鎖を行いながらも、江戸幕府屈服のために江戸または大坂を占領する必要があると考えていました。ミシェルは江戸への滞在経験があり、第3のケースはかなり詳細な攻略ルートが挙げられています。
江戸の攻略にさほどの困難は見受けられません。
進路の要衝を押さえる要塞群は海軍が最初に攻略しなければなりません。あるいは、陸軍から同時に攻撃が行われるべきかもしれません。背後から要塞を落とすのです。…
江戸攻略に要請したい兵力は、歩兵12,000、騎兵500、そして強力な砲兵部隊です。
作戦基地は横浜と神奈川になるでしょう。…江戸に着いたら公館から2、3マイルの丘を奪取すべきです。
この丘は江戸中央部の広大な城塞を見おろしています。
この丘から城塞を砲撃すべきです。その内部の建造物はすべて木製であり、大名や武装した家臣、そして政府の兵隊で占められています。…さらに、門は容易に爆破して開くであろうし、かくして城塞を占領しうるでしょう。…
この城壁の内部には内部複廊(本丸)があり、ここに大君が住んでいます。ここは城壁から砲撃できるでしょう。落城は容易であると思われます。(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
品川台場の攻略
イギリス海軍が攻略するべき要塞群とは品川台場を指すものと思われます。当時の江戸湾には欧米列強から江戸が直接攻撃される事態に備えて品川に5基の台場・砲台が建造されていました。そしてその台場の警備を浦賀奉行所や会津藩など諸藩に命じて大砲を揃えました。江戸幕府の最終防衛ラインです。
(品川台場に設置されていた80ポンドカノン砲)
Odaiba 御台場|軍事板常見問題 戦史別館によれば、1853年当時江戸湾の警備を担当していた奉行所や諸藩は189門の火砲を備えていたと書かれています。そのうち43門が洋式砲で内訳は以下の通りです。
浦賀奉行所
24ポンドカノン砲2門、18ポンドカノン砲1、ボムカノン砲1門、30ポンドカロナーデ砲、20ドイムホウイッツル砲2門、15ドイムホウイッツル砲1門、39ドイムステンモルチール砲1門、29ドイムステンモルチール砲1門会津松平家
150ポンドボムカノン砲1門、20ドイムホウイッツル砲2門、29ドイムモルチール砲2門、3寸5分モルチール砲2門,、2ドイムハンドモルチール砲2門川越松平家
60ポンドカノン砲1門、24ポンドカノン砲2門、18ポンドカノン砲2門、80ポンドボムカノン砲1門、15ドイムホウイッツル砲1門、12ポンドハンドモルチール2門彦根井伊家
24ポンドカノン砲1門、8ポンドカノン砲1門、60ポンドカロナーデ砲1門、20ドイムホウイッツル砲2門、15ドイムホウイッツル砲2門、29ドイムモルチール砲2門、13ドイムハンドモチール砲2門、29ポンドステンモルチール砲1門忍松平家
29ドイムモルチール砲1門
ミシェルの書類が書かれたのはこの10年後にあたり、品川台場の防備はさらに強化されていたと思われます。ミシェルの計画ではこの台場を海軍で攻略することがまず想定されていました。しかし品川台場には洋式砲が多数揃えられており、台場からの射程距離外から艦船で砲撃して沈黙させるのは不可能であったと思われます。実際に台場砲台との砲撃戦となったらイギリス海軍にも相当な犠牲が出たと思われます。
(薩英戦争)
ミシェルの文書が書かれた1863年には薩英戦争が起きていますが、薩摩側の砲門は85門あり、品川台場の会津藩のような150ポンド砲2門と80ポンド砲5門を装備していました。薩摩との砲撃戦でイギリス艦隊は砲艦レースホースが大破(自力航行不能)、旗艦ユーライアラス、アーガスが中破して旗艦の艦長が死傷するという大損害を受けています。イギリス艦隊は横浜に撤退し、薩摩とイギリスが結びつく要因となりました。
もしイギリスが品川台場を攻撃した場合は薩英戦争以上の損害が発生したと思われます。
江戸城
ミシェルは品川砲台の攻略後に歩兵1万2千人と騎兵の大部隊で神奈川に上陸して東海道を東上し、江戸城を見おろす丘を占拠するように提案しています。この丘が何処を指すのかは明確にはわかっていませんが、愛宕山ではないかと考えられています。愛宕山から江戸城を砲撃し、城内の諸藩の兵力や旗本などに損害を与えてから江戸城の城門を突破する作戦が立てられていました。
(大坂城内で訓練を行う幕府陸軍)
1862年に幕府は文久の改革によって陸軍を創設しています。大関増裕が陸軍奉行に任じられ、歩兵奉行・大砲組組頭・騎兵奉行を統括するいわゆる三兵編成が採用されました。イギリス軍が江戸へ向けて進撃する場合、この幕府陸軍と旧来の旗本衆そして諸藩の軍との戦闘になると思われます。さらにミシェルは将軍のいる本丸をも砲撃するべきであるとしています。
江戸城攻略に必要な兵力は12,500人。さらにミシェルは神奈川から江戸城に至る補給ルートを維持するために3,000人〜4,000人の追加兵力が必要とも指摘しています。かなり大規模な戦力であり、当時のイギリスをもってしてもこれだけの戦力を投入することは難しかったため、ミシェルは海上封鎖をメインにしつつ、江戸と大坂の二方面を同時に侵攻する作戦は避けるべきであると考えていました。
一方で江戸と大坂への侵攻は京の攻略に比べれば容易いとも考えていました。
結論として理解してもらいたいことは、江戸あるいは大坂攻略は、ミヤコ攻略に比べればさしたる困難を伴うことはないということです。
輸送面では、江戸攻略の4分の1の量で足るし、大坂は3分の1です。そのうえ、江戸については、わが輸送車両が立派に役立つと思われます。(「日本における我々の立場に関する軍事覚書」)
そして下関戦争へ…
今まで見てきたものはイギリス陸軍による日本侵攻のシミュレーションですが、同じく海軍でも主に補給ルート確保を目指す計画が立てられていました。列強諸国の中ではこのような軍事計画が多数立てられています。このような緊迫した情勢下で日本国内では尊王攘夷運動への鎮圧が展開されることになりました。
八月十八日の政変によって会津藩と薩摩藩は京から長州藩の攘夷派や長州寄りの公卿を追放しました。その後、天誅組や土佐勤王党など尊王攘夷派が各地で蜂起しますが、いずれも失敗に終わっています。
(水戸天狗党の乱)
水戸では尊王攘夷派の水戸天狗党の乱がありました。横浜鎖港を主張し後期水戸学を信奉する水戸藩士らが筑波山で蜂起し、幕府や諸藩の追討軍との戦闘を展開しながら京を目指して西進しました。しかし美濃国で水戸天狗党も敗れて鎮圧されました。列強諸国の軍事侵攻の可能性と幕府や諸藩の思惑を抱えながら、尊王攘夷派の最終決戦は下関戦争へと収斂していくことになりました。
幕末日本の対外戦争の危機に関しては、保谷徹『幕末日本と対外戦争の危機 下関戦争の舞台裏』が詳しくお薦めです。
幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏 (歴史文化ライブラリー)
- 作者:保谷 徹
- 発売日: 2010/01/01
- メディア: 単行本