今年も相馬野馬追が7月29日〜7月31日に開催されます。シリーズで相馬野馬追・相馬市・相馬の歴史などを紹介する記事を書いていきます。
シリーズ1回目の今日は、日本史上初めて「津波」という呼称が登場した慶長三陸地震での相馬藩の被害を、スペイン人のビスカイノ提督の記録を元に追っていきます。
慶長三陸地震と「津波」という呼称の登場
(慶長三陸地震)
東日本大震災からちょうど400年前の1611年(慶長16年)12月2日、岩手県三陸沖を震源とする推定マグニチュード8.1の地震が発生しました(マグニチュードは諸説ありM8.4〜8.7とする研究もあります)。
この地震は慶長三陸地震または慶長奥州地震と呼ばれており、貞観地震以来の巨大地震です。津波は推定20メートルに達し、織笠村(岩手県山田町)では沿岸部から2.1キロメートルの内陸にまで浸水したと推定されています。地震と津波によって奥州沿岸の諸藩は甚大な被害を受けました。
仙台藩の『貞山公治家記録』(伊達治家記録)や徳川家の政情を記した『駿府記』(作者不詳。林羅山か後藤庄三郎ではないかと言われています)では被害の状況を以下のように記しています。
十月己 亥小廿八日甲午、巳刻過き、御領内大地震、津波入る、御領内に於て千七百八十三人溺死し、牛 馬八十五匹溺死す
『貞山公治家記録』
十一月晦日、松平陸奥守政宗、献初鱈、就之、政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流出、溺死者五千人、世曰津波云々、本多上野介言上之
『駿府記』
日本の文献史料の中で「津波」という言葉が登場するのは、この『貞山公治家記録』と『駿府記』が現時点で確認できる最も古いものとなっています。駿府記で「世曰津波云々」と記されているように、この慶長三陸地震をきっかけに世では「津波」という言葉が生まれたのではないかと考えられます。それくらい大きな津波でした。
諸藩の被害と史料の問題点
相馬中村藩でも津波によって700人余りが溺死したという記録が藩の記録『利胤朝臣御年譜』や『小高山同慶寺記録』に残っています。
海邊生波ニ而相馬領ノ者七百人溺死
(『利胤朝臣御年譜』)
岩手県にあった南部藩でも甚大な被害を受けていました。
此日、南部・津軽海辺人屋溺失、而人馬三千余死云々
(『駿府記』)
被害は東北だけにとどまらず、北海道にあった松前藩では「海嘯」により日本人と夷(アイヌ人)が多く亡くなったとする記録が残っています。
慶長十六年十月、東部海嘯、民夷多ク死ス
(『松前家譜』)
この時に江戸も大揺れであったことが、その時に江戸に来ていた公家の山科言緒の日記にも記されていました。
二十八日(中略)一、辰刻大地振
(『言緒卿記』)
しかし、これらの記録は数値を記した断片的なものであり、慶長三陸地震の状況がどのようなものであったのかを記した史料に乏しいという問題点があります。江戸時代初期の当時はまだ識字率が低く、被災地の状況を民間人が記した史料はあまり見つかっていません。
しかし、その重要な手がかりとなる記録が遠くヨーロッパのスペインで発見されました。17世紀の探検家ビスカイノ提督が記した『金銀島探検報告』です。
ビスカイノ提督と日本
セバスティアン・ビスカイノはスペインの貴族であり探検家です。ノビスパニア(現在のメキシコ)へ渡り、太平洋沿岸を探検しました。カリフォルニア沖の探検によってサン・ディエゴを命名した人物でもあります。その後フィリピンに渡りました。この頃にフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロが日本に漂着して、日本人によって救助されてメキシコまで帰還しました。
ビスカイノはこの返礼大使として日本へ派遣されました。その目的は通商関係・測量・金銀島の探索であったと言われています。仙台藩沿岸を測量中の船上で慶長三陸地震に遭遇しました。その後、伊達政宗の援助で支倉常長らの慶長遣欧使節団と共にノビスパニアに帰国しました。
帰国後、ビスカイノがノビスパニア副王へ宛てて提出した報告書が、現在のスペイン国立図書館に収蔵されています。この文書はPDFで全文を読むことができます。日本においては戦前に『ビスカイノ金銀島探検報告』として邦訳が出版されています。
『ビスカイノ金銀島探検報告』によれば、ビスカイノは12月2日に測量のため出航していましたが、陸の人々が丘や小山に向かって逃げていく光景を船から目撃したと記されています。当初ビスカイノはその理由がわかりませんでしたが、その後に家屋が全て津波で流されていく惨状を目にしました。その後も測量を続けますが、その際に立ち寄った村の様子も克明に記録しています。測量を終えて仙台に戻った後、徳川秀忠と謁見するために陸路で江戸を目指しました。相馬中村藩がどのような状況であったのかを読み解いていきます。
ビスカイノが見た相馬藩の被害状況
12月18日にビスカイノは相馬中村藩に到着しました。
其領主は大膳殿(Daygendono)なり。到着前、皇太子の書翰を届け、同市に入るの許可を求めしが、喜んで之を与へ、旅館・食物、其他、必要なる物を給したり。
大膳殿とは相馬大膳大夫利胤であると考えられます。初代中村藩藩主です。当初は相馬三胤という名前でしたが、相馬が関ヶ原の戦いで中立の立場を取ったため所領没収の危機に直面した時に石田三成の三を外して蜜胤と改名、その後、婚礼の儀に出席した土井利勝(後の大老)の名前から一字取って和胤となった人物です。
ヴィスカイノが徳川秀忠の書簡を届けて相馬藩に入る許可を求めたところ、歓待を受けて宿泊先や食事も振る舞われたと記録されています。その後、ヴェスカイノは中村藩の状況について以下のように記しています。
月曜日、司令官は羅紗及び布類の進物を携へて彼を訪問せり。之を携へざれば面会することを得ざるが故にして、又海岸に近き領主なるが故に、彼と相識りて交誼を結び、船の沿岸に避難したる場合に備へ、又我等との交易および基督教に心を傾くるに至らしめんが為、之をなしたり。
司令官とはビスカイノのことです。相馬藩に到着した翌日にラシャや衣類を貢ぎ物として相馬利胤に面会しました。この目的は相馬藩と友好関係を築いて海難事故の時に支援を要請し、キリスト教への改宗も考えていたようです。
彼は、其城内に於て快く司令官を迎へ、城は破損し、再築中なるを以て城内に迎へざるを謝し、同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ぼしたる被害の影響を受けたりと言ひ、其通行の際竝にイスパニヤの船又は国民同所に来る時は、全領内に於て喜んで十分なる給与をなすべしと述べたり。而して翌月曜日我等が行きて海岸及び余り用をなさざる二つの入江を測量する為め、同市に滞在せし時に其約を果したり。
相馬利胤はヴィスカイノを歓迎し、城が破損して再建中のため城外で面会したことを謝ったと記されています。この城とは同年に小高城から本拠を移転したばかりの相馬中村城と思われます。面会した場所は「城塞の入り口」(a la puerta de su fortaleza)と記されており、大手門周辺であったのではないと思われます。
移転したばかりの城が破損していたと記されており、地震による崩落ではないかと考えられます。さらに「同市も海水の漲溢に依り、海岸の村落に及ぼしたる被害の影響を受けたり」と海岸部が海水による被害に遭っていることが記録されています。ヴィスカイノの報告は「en los pueblos de la playa (浜辺にある幾つもの村) 」を「el crecimiento de la mar」(高潮)が襲ったと記されていました。相馬藩の記録である『利胤朝臣御年譜』の「海邊生波ニ而相馬領ノ者七百人溺死」を裏付けるものとなっています。
ヴィスカイノは相馬利胤よりイスパニア船が通行した場合には助けを得ることの約束を取り付け、二つの入り江(相馬の新沼浦と松川浦)を測量して相馬藩に報告しました。その後、相馬利胤より馬一匹を与えられ、道中に必要な入費として銭一荷が贈られました。途中まで警備のために3人の奉行と兵士が同行したと記録されています。彼らは相馬家のかつての居城があった小高へ一泊、その後、熊川(双葉郡双葉町)に一泊し、翌日には平に着いたと記されています。
相馬藩の復興
その後、相馬藩は相馬利胤の元で復興への道を歩みました。損壊した中村城は再興され、城下町は京を模した碁盤目状に整備されました。これが現在の相馬市の市街地の基礎となっています。また中村城周辺の堀も整備され、軍事拠点としての城も完成を見ることになりました。相馬利胤は大坂夏の陣において徳川秀忠の先鋒を務めています。
(中村城跡の赤橋)
ところで…(相馬小話)
相馬市黒木薬師堂87番地には黒木諏訪神社という神社があります。ここには古い言い伝えが残っていて、大昔に津波がこの神社まで押し寄せた時、神社の大木の先端に船の碇をつないで難を逃れたと言われています。この神社は東日本大震災で浸水した場所よりも更に内陸で、市街地を越えて山間部の入り口にあたります。この神社まで届く津波が来たのはいつだったのか。貞観地震か、慶長三陸地震か、あるいはそれ以外の記憶が残っているのか。現在も分かっていません。
参考
- 岡田 清一「慶長奥州地震と相馬中村藩領の復興」(『東北福祉大学研究紀要』第41巻)
- 蝦名裕一・高橋 裕史「『ビスカイノ報告』における1611年慶長奥州地震津波の記述について」(歴史地震29号、東京大学地震研究所)
- 蝦名裕一『1611年慶長奥州地震津波 新出史料とその分析』(歴史地震30号、東京大学地震研究所)
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- 作者:阿部珠樹
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