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安室奈美恵と衆議院解散と私の黒歴史

   

西暦2000年の東京に安室奈美恵のNEVERENDが流れた話

安室奈美恵引退&衆議院解散と聞いて、それに関係する私の過去の黒歴史をつらつらと自分語りしてみます。かなり長めです。

西暦2000年3月に大学を2年生で退学した20歳の私は、埼玉県東松山市から東京都中野区に引っ越して、風呂無しエアコン無しトイレ共同の家賃4万円のアパートで生活を始めました。そして「東京で一花咲かせよう」と決意したのでした。

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(私が住んでいたアパート。今年撮影。1階の手前から2つめの部屋に住んでいました)

極貧生活と初めての自殺未遂

毎日モヤシを食べる貧乏な暮らしが続きました。最初は大学の雄弁会の先輩の紹介で板橋区の総合病院の夜間受付のアルバイトをしていました。休憩時間には仮眠を取ったり新聞などを読んで息抜きをすることができて、かつて「平成」の元号を発表した小渕総理が急死したことや後継総理に森さんが決まったことも夜の病院で新聞を読んで知りました。

病院のバイトは救急隊からの電話応対や医師・看護師のいじめがキツくて短期間で辞めてしまいました。その後は大学時代の立教大学弁論部の友人の紹介で、朝日新聞東京本社で新卒記者採用試験の事務のアルバイトをやりました。とはいえ、これも朝日新聞の新卒採用期間だけの短期バイト。すぐに再びお金に困ることなってモヤシを食べる日々が続きました。

アパートは天井からよくゴッキーが降ってきました。隣の部屋も無職の男性でその人は腹いせに壁を蹴っていたので、土壁がかなり崩れて隣の部屋がうっすらと見えるようにまでなっていました。上の階は早稲田の学生でよく女子大生を連れ込んでいて、夜は私の部屋までミシミシ揺れてガラス戸が鳴って眠れませんでした。隣の建物は聖教新聞の販売所で念仏や万歳がよく聞こえてきました。

エアコンがなかったので夏場はかなり暑くなりました。銭湯は1回400円くらいしたので、5分100円のコインシャワーで5分間以内に体を洗っていました。コインシャワーも衛生状況が悪くナメクジやゴッキーを除けながら体を洗っていました。共同トイレは…衛生状態が悪すぎたので、トイレには行かず自分の部屋の台所でしていました。

祖母が私の生活を心配して缶詰やメロンを段ボールに入れて送ってくれました。ありがたく食べていたのですが、段ボールが2段構成になっていることに気づかず、上の段のメロンだけ食べて終わったと思っていました。ずっと後に段ボールを動かそうとしたら下の段があることに気づいて…、メロンが腐って大量にウジがわいていました。そのことにずっと気づかなかったくらい、私の生活はすさんでいました。包丁で自分の手首を切ってみたけど血が流れただけで死にませんでした。

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(当時の私の部屋)

救いはTCP/IPの向こう側と吉野家にあった

私にとって唯一の救いはパソコンとインターネットでした。相馬にいた頃の90年代半ば頃からパソコンやパソコン通信を始めて、1998年からインターネットにGeocitiesに「齊藤貴義の学問ホームページ」という自分のホームページを持っていたので、毎日ホームページの更新は行っていました。元々はHOTALというホームページ作成ソフトを使っていたのですが、2000年にDreamweaverやFireworksを購入してページを制作していました。

ホームページは仮想都市を目指して「次世代情報都市インフォポリス」に改名し、その後「次世代情報都市みらい」に再度改称しました。Geocitiesでは力不足となり、独自ドメインを取ってCPIというレンタルサーバーに移転しました(現在のKDDIウェブコミュニケーションズ)。掲示板は元々はレンタル掲示板のティーカップを利用していたのですが、それだけでは足りなくなって、見よう見まねで議論掲示板や全文検索などのCGIを設置してカスタマイズしていました。

たまにテレビをつけながら時事ネタをチェックしていたのですが、当時、森総理が神道政治連盟の懇談会で「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」といういわゆる「神の国発言」をして大騒動になっていたので、その話題をよくネットで議論していました。

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(次世代情報都市みらい)

(当時のネット活動を知っている人との会話)

私の数少ない娯楽は、モヤシを食べ続けて浮いたお金で吉野家や松屋に食べに行くことでした。夜明け間際の中野区の吉野家では、新宿から帰ってきたような化粧の剥げたシティガールや男たちが眠っていました。そんな殺伐とした雰囲気の中で1人で牛丼を黙々と食べるのが好きでした。

衆議院選挙と民主党

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すさんだ生活を送っていたある日、大学時代の明治大学雄弁部の友人から私の携帯に電話が掛かってきました。衆議院選挙のアルバイトの話でした。その時は森総理が神の国発言の責任を取って衆議院を解散。間もなく衆議院選挙が行われようとしていました。「いま八王子の民主党新人の事務所で選挙運動をやっているんだけど、自民党の現職に押されて苦戦してる。バイト代は出る。齊藤、一緒に手伝ってくれないか?」と言われました。当時の私は特に民主党支持というわけではなかったのですが、何となく興味をそそられました。

そんなわけで私は八王子に泊まり込んで2000年の衆議院選挙の運動員のアルバイトをすることになりました。八王子では自民党の現職と民主党の新人の事実上の一騎打ちになっていました。神の国発言で自民党には逆風が吹いていましたが、八王子には創価大学や東京富士美術館など創価学会の施設が集中していて学会員の基礎票が厚く、自民党現職が有利という情勢でした。

私は明治大学や東京都立大学の学生達と一緒に「タコ部屋」と呼ばれたアパートの一室にみんなで泊まり込みながら、事務所に毎日出て街宣車に乗って候補と一緒に八王子市内を回り、ビラまきや呼びかけなどの選挙運動を展開することになりました。事務所には支持団体以外に純粋に有志の市民ボランティアも集まり、かなり大勢の人がいました。

日中は街宣車に乗り込んで移動して選挙運動を展開していきました。民主党の新人は石原慎太郎と菅直人の秘書だった人ですが、ジョージ・ワシントン大学と大学院で国際政治を専攻していました。私も大学は国際関係学部だったので、休憩中に候補にE.H.カーの『危機の二十年』の話を持ちかけたら、「『危機の二十年』は僕も愛読書です」と笑顔で話に応じてくれました。途中で選挙参謀から「よせやい、また演説で難しい言葉を使っちゃうから」と冗談交じりで横やりが入ったりしました。選挙参謀は候補の演説が難解な言葉や理屈が多すぎるとして好ましく見てはいませんでした。

八王子での苦闘

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自民党の現職は八王子の古くからの住民がいる地域を中心に集会を開いて支持を固めて行っていました。私達は八王子の中でも地縁に縛られず自民党政権に批判的な人々が多そうな集合住宅・団地などに狙いを定めて集中的に回って政策を訴えていく戦術を採りました。街宣車で候補の名前を連呼しながら集合住宅を周り、途中で街宣車をとめてスポット演説を行っていきました。

自民党政権での600兆円を越える巨額の財政赤字で日本は危機に直面しているとし、政権交代で自民党がつくった既得権益を解体して社会保障を充実させ日本を立ち直らせるとことを訴えました。その間に私達運動員がビラを配ったり支持を呼びかけたりしました。自民党に逆風が吹いていたこともあり、スポット演説を行うとマンションの窓を開けて子供と一緒に手を振ってくれる主婦などをよく見掛けました。選挙参謀は私が竹中平蔵に顔が似ているとのことで「竹中」というあだ名をつけ、「よし、竹中、行ってこい!」と指示を飛ばしました。他の運動員仲間達からも「竹中」と呼ばれるようになりました。

朝は朝立ちで候補と一緒に駅頭に立って挨拶やビラを配り、日中はほとんど街宣車に乗って市内を移動して走り回りました。事務所に帰ってきたらみんなで数万枚の公選葉書の宛名書きを手書きで行っていました。深夜に運動員仲間とタコ部屋へ帰宅。タコ部屋でみんなで家事もしながら政治や日本の将来について夜遅くまで議論を続けた日もありました。そして早朝に目覚ましでみんなで起きて駅頭の朝立ちへ。自民党陣営が深夜にこちらの中傷ビラを撒くという内部情報が入ってきて、待機していたこともあります。

選挙戦中盤になって新聞各社が衆議院選挙の各選挙区の情勢を発表しました。「八王子は自民現職が有利に戦いを進めている」と報じられました。自民現職優勢ー。投票日まであと1週間の段階でこの報道の意味は重く、事務所はかなり沈痛なムードに。「新聞の報道は良くなかったけど、まだ盛り返せる!頑張ろう!」と選挙参謀がみんなにハッパを掛けて、街宣もスポットも今まで以上に頑張ることになりました。

選挙終盤戦にこのような情勢を一変させる出来事が起きました。森総理が「無党派層は寝ていてくれればいい」と発言してメディアで大きく報じられました。この発言からガラリと空気が変わりました。駅頭や集合住宅でビラを配っていると「民主党頑張れ」と声を掛けてくれるサラリーマンや主婦が大幅に増えました。

選挙参謀の提案で、政策を訴えるよりも「無党派層は寝ていてくれればいい」という森総理の失言を攻撃するという戦術に切り替わりました。街宣車やスポットで森総理の失言を攻撃すると聞いてくれる人が増えました。政策を訴えるよりもずっとー。

黄昏時の多摩ニュータウン

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選挙戦終盤、夕暮れ時の多摩ニュータウン。老朽化したニュータウンの外壁が夕陽に染まって黄昏色になっていました。その中を候補者の名前を連呼しながら進む街宣車には悲壮感がありました。街宣車の窓から外を見ると黄昏色の多摩ニュータウンでは小さい子供達が遊んでいて、お年寄りが歩いていました。

その光景が今の衰亡しつつある日本社会の象徴のように思えて、「自民党を倒して民主党政権が誕生しても、ここに住む人々が救われる日は来るんだろうか?」ふと、そんな疑問が浮かびましたが、それは口に出さず、次のスポットでビラを撒くための準備をしました。

2000年6月25日の投票日。事務所にみんなが集まりNHKの開票速報を固唾を呑んで見守りました。「○○選挙区、自民現、当選確実です」テレビでは続々と各選挙区の自民現職の当選確実を伝えていました。そのたびに「うーん…」と事務所では唸り声が上がりました。当選が決まった事務所からの中継で、自民党議員が「大変厳しい選挙戦でございましたが、自民党頑張れ!という有権者の皆様の期待が集まった結果だと思います」と話して万歳を行う映像が流れました。

「風は吹かないのかな…」誰もがそんな不安を抱きながらテレビを見つめていました。後半になってくると自民党と民主党が競り合っている選挙区を中心に、民主党の当選確実の報道が流れ、みんなで拍手をして喜びました。

しかし、八王子選挙区はまだ当確が出ず…。開票所で選挙管理委員会の開票作業に立ち会っている人からも「自民党と民主党の票は同数」という連絡が入ってきました。開票終盤になってきたら事務所に続々とカメラマンが入ってきて、NHKで「八王子選挙区 民主新人・当選確実」というテロップが流れました。

みんなが立ち上がって「わー!」と歓声を上げ、拍手が湧き起こりました。そしてみんなで「おめでとう!」と固く握手をしあいました。選挙参謀が「竹中!お前は体力ないのによく頑張った!当選できたのは半分はお前らの力だ」と強く抱き寄せて握手をしてくれました。市民ボランティアのおばちゃんは泣いていました。そして「総理大臣になる人が初めて当選する瞬間に立ち会えたねぇ」と泣きながら嬉しそうに声を掛けてくれました。事務所に候補が現れて、みんなで万歳をしました。翌日の新聞には、「自民党苦戦 民主党躍進」という見出しが並んでいました。

安室奈美恵のNEVEREND

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そんな衆議院選挙のアルバイト体験を終えて、私は中野区のボロアパートに帰りました。選挙期間ほぼ毎日ずっと働いていたので、当面の生活には困らなそうなお金が入りました。私はそのお金でまた吉野家や松屋に通う日々が続きました。

ある日の早朝、吉野家で牛丼を食べていたら安室奈美恵の「NEVEREND」がBGMで掛かりました。九州・沖縄サミットが2000年7月に開かれようとしていました。NEVERENDは小渕元総理が小室哲哉に作曲を依頼した九州・沖縄サミットのテーマソングで、当初は明るい曲だったそうですが小渕元総理の死去を受けて悲しみと希望が入れ混じった曲になり森総理に渡されたと聞いていました。

そのNEVERENDを安室奈美恵が歌うのを牛丼を食べながら聴いて、すごく印象に残ったのでした。「生きていかなきゃいけない 涙の日でも」「だけど強くなれない ならなきゃいけない」その日の吉野家のことを今もはっきりと憶えています。

八王子以後

サミットは無事に終わり、翌年に森内閣は総辞職して小泉内閣が誕生しました。竹中平蔵がブレーンとして起用され、痛みを伴う構造改革と郵政民営化が進むことになりました。民主党は抵抗勢力と呼ばれ、次の郵政解散で惨敗しました。

八王子のタコ部屋で一緒に寝泊まりしていた東京都立大学の学生がNPO法人を立ち上げるというので手伝いに行きました。今後の日本は世代間格差が大きくなっていくと主張し、20歳未満への選挙権年齢の引き下げを求めてメディアにも多数登場することになるNPO法人ライツの立ち上げ集会に参加したのを憶えています。菅直人の息子の管源太郎さんも参加していました。このNPO法人を立ち上げた東京都立大学の仲間は、その後菅直人の秘書になりました。明治大学雄弁部の友人から、八王子の選挙参謀が覚醒剤所持容疑で逮捕されたということを聞きました。

私はその後は雄弁部の友人の誘いで携帯電話の機種変更端末を回収するアルバイトを始めました。かなり楽なバイトで、電車に乗ってスーパーの家電売り場の携帯電話(機種変更端末)を回収して下落合の機種変更センターに運ぶという仕事でした。そして次の便で機種変更のデータを移し終わった端末を売り場まで電車を使って運びます。機種変更端末といっても1日に2、3件あるかないかくらいで、土浦まで電車で1本で2往復するだけというコースもあります。電車で移動中は読書など好きなことができます。まだキャリアが湯水のように儲けていた時代ゆえになせる仕事だったと思います。私はよく電車の中で社会学の本を読んでいました。

その後、携帯電話の機種変更が伸び悩むようになり事業が縮小して仕事が続けられなくなくなりました。私は新宿・歌舞伎町のホストや中野区のコンビニのバイトなどを転々としていました。頻繁に食べに行っていた中野区の松屋の店員の女の子から「かっこいいです」と告白されたのですが、特に恋愛関係に発展するのでもなく、ある日その子はバイトを辞めました。

2002年になって八王子で選挙を手伝った候補の秘書が新潟で立候補することになり、その秘書から「齊藤、もう一度手伝いに来てくれないか」と声を掛けられ、雪深い新潟で再び泊まり込んで統一地方選挙の仕事を手伝いました。新潟では八王子のような都市型選挙とは違って市民ボランティアはほとんどおらず、労組を中心に労組選対を立ち上げて選挙を戦うことになりました。

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(左が新潟時代の私)

その時は街宣車に乗る外回りではなく、事務所の内部で仕事をしました。候補からの依頼でFileMakerというデータベースソフトを使って支援者の名簿をつくることになり、それを使って公選葉書の宛名なども印刷できるシステムを構築しました。自動化されたデータベース名簿には労組選対の幹部も息を呑みました。

選挙の途中でアメリカがイラクへの攻撃を開始してイラク戦争が始まり、候補も駅前の反戦デモに加わりました。そして初当選。当選が決まって祝勝ムードにわく事務所で、私は当時民主党にかなり疑問を抱いていたので「勝って兜の緒を締めよ」という発言をした場違いな奴でした。新潟でも勝利を収め、私は東京へと戻りました。

牛丼パソコンとWebエンジニア

その後、私は東京でIT企業のアルバイト求人に応募しました。日本メディカルネットコミュニケーションズ株式会社という長い名前の小さな会社で、社長と5人のアルバイトが働いていてインプラントなど自由診療の歯科ポータルサイトを運営していました。

私が面接を受けた時には社長がカップラーメンを食べていて、「齊藤君、ちょっと待ってね」とカップラーメンをすすっていました。偶然にもこの歯科サイトがデータベースでFileMakerを使っていたので私は即採用が決まり、3ヶ月後には正社員となりマネージャーとなりました。

新しいサービスのサーバーにするために社長と一緒にソフマップに牛丼パソコンを買いに行きました。会社の検索エンジン対策も担当することになり、私の対策によって「インプラント」「矯正歯科」「審美歯科」などのキーワードで1位となり会社の売上が伸びました。現在この会社はメディカルネットという社名で東証マザーズに上場しています。しかし、この頃から私は深刻な不眠が続き、会社も休みがちになっていきました。

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メディカルネットを辞めた後に私は、かつてレンタル掲示板を利用していたティーカップコミュニケーションの求人に応募して入社しました。GMOに買収された後だったので、渋谷のセルリアンタワー勤務となりました。セルリアンタワーの6階にはGoogleのオフィスもありました。私はここで本格的にWebエンジニアとしてのキャリアをスタートさせることになりました。この頃にやっと中野の風呂無しトイレ共同のアパートから出て東中野の新築のマンションに住むことに成功しました。

八王子の選挙の誘いを私に電話してきた雄弁部の友人は、その後は民主党の国会議員秘書となり、民主党政権でも活躍することになりました。民主党が惨敗して政権から下野してからは郷里に帰っています。

安室奈美恵

NEVERENDはそんな私の人生の転機の色々な思い出が詰まった曲です。

黄昏時の多摩ニュータウンと一緒に安室奈美恵のNAVERENDを思い出します。