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リベラルとは何か? 社会自由主義の地平

   

これからリベラル派の話をしよう

民進党のリベラル勢力が立憲民主党を結成して話題になっている。立憲民主党のフォロワー数が14万を越えてリベラルな人々の受け皿として注目が集まっていると言われている。そもそも「リベラル」とはいったい何だろうか?

リベラルについては誤解が多い。TOKYO MXの「オピニオンCROSS」という番組でマルクスの写真と一緒にリベラルが紹介されていた。リベラルは「革命・改革・リセット」を求める立場と解説されていた。これは極端なケースだが、漠然と「リベラル=左翼」と思っている人はかなり多い。

産経新聞でもリベラルとは「護憲・反日米安保・反自衛隊」であるというかなり質の低い解説記事を出している。

国際医療福祉大の川上和久教授(政治心理学)は「その中でリベラルとは、自民の半分ほどの勢力を保った旧社会党に代表される護憲、反日米安保、反自衛隊の主張を指した」と指摘する。
【衆院選】ところで「リベラル」どんな勢力?(1/2ページ) - 産経ニュース

比較的リベラル寄りの毎日新聞では、革新マイナス社会主義がリベラルであると解説している。

成田さんは「革新勢力は社会主義を理想としたが、90年前後の社会主義陣営の瓦解(がかい)で退潮した。今のリベラルは『革新マイナス社会主義』で人権・平和の理念を掲げている」と話す。
毎日新聞 「保守」「リベラル」って何?

今回はリベラルの定義を巡って、リベラルとは「何であるのか」「何でないのか」について考えていきたい。

リベラルの呼称を巡る混乱

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リベラルを説明するためには、まず古典的自由主義としての「リベラルズム」とは歴史的関係性があるけれど別物であるところから説明しなければいけない。個人の自由を最大限尊重するリバタリアニズムとも区別される。そして欧米のリベラリズムと日本のリベラル派の政治思想もかなり違う。もちろん社会主義思想とも大きく異なる。

日本の「リベラル派」という呼称は、中道左派を指す呼称として使われているケースが多いように感じる。ただし、人によってリベラル派の使い方にブレがあるので定義は一貫しない。中道左派でも社民党をリベラルと見做さない人もいる。自民党とりわけ岸田派はリベラルであると主張する人もいる。また、小沢一郎氏の自由党の英語表記はLiberal Partyである。

そして更にややこしいことに「リベラル左派」という呼称があるように「リベラル右派」もまた存在する。前原氏らをリベラル右派と呼ぶ人々もいる。

古典的自由主義との峻別

マキャヴェリやジョン・ロックあたりの政治思想の源流から現代思想まで辿っていけばアカデミックで正確な定義ができるかもしれない。しかし、現代はコーヒーハウスで公衆が討議し合う公共圏は既に失われて、大衆がネットを通じて政治や社会問題を語り合う時代であり、古典から紐解く岩波読書人でなければ正確に理解できない用語というのは政治への一般参加を阻む障壁となっていないだろうか。同じリベラルでも古典自由主義などと区別しなければいけないのはやはり難解なことに違いはない。

いったん歴史的経緯から解説するとすれば、リベラルは古典的自由主義とは異なる。功利主義を全面的に正当化するものではないし、市場メカニズムが万能であるとも考えていない。議会制民主主義による統治の正当性は認めるがそれが多数決による暴力の行使であってはならないと考えている。

ヨーロッパに出現した亡霊とリベラルの誕生

リベラルを語る上で重要なことは、科学的社会主義の登場によって古典的自由主義が大きく変容したことであると思う。社会主義の登場によって自由主義の政治的解放の限界が指摘され、私有財産には人間の人間からの疎外があることが明らかにされた。市場経済は万能ではなく搾取の構造があることが暴かれることになった。人間本来の自由とは共産主義革命によって達成されるという考えも生まれた。

しかし、20世紀後半には共産圏の衰退が起こり、社会主義思想の持つ矛盾もまた明らかにされ批判的に乗り越えていくことが必要となった。社会主義は必ずしも人間の自由や解放をもたらさず、東側陣営の経済も停滞して崩壊した。だが、東側陣営が崩壊したからといって、社会主義が提起した問題が解決されたわけではなかった。貧困や搾取の問題は解決せず、現代日本もブラック企業問題に悩まされている。地球規模では環境問題や人口問題、貧しい国を周辺とする世界システムの構造格差などが、資本主義の発想では解決が困難な課題として表面化している。

ここで必要とされる思想は単なる古典的自由主義への回帰であってはならず、社会主義思想が批判した古典的自由主義の問題点を乗り越え、さらに社会主義思想の問題点を乗り越えるものでなければならない。リベラルとはこのような問題意識に立ち、古典的自由主義→社会主義の挑戦→社会主義の退潮の中で陶冶されていった自由主義思想であると言える。ここには修正資本主義や中道左派を中心に第三の道が模索されてきた影響も無視できない。リベラルはこのようなアウフヘーベンから生まれた思想である。

リベラルは教条主義的な左翼思想ではない

リベラルは教条的な政治思想ではなく、このような歴史的経緯を持つ多様な思想のまとまりである。リベラルを教条的な左翼運動と捉えている人はネットではやはりかなり多い。リベラル派が護憲派や教条的平和主義者とは限らないということがうまく伝わらないことがある。

保守思想や伝統主義とリベラルは何が異なるのだろうか?保守思想もまた社会主義思想の挑戦を受けてもなお生き延びえた思想である。この疑問に対しては、リベラルとは社会主義思想の問題点を修正しながらも、可能な限りにおいて個々人の人格の多様性と権利の確保、社会福祉の向上を目指す思想であると言えると思う。したがって団結と全体の利益のためには個人の権利や多様性を制限することも是認する保守思想や新自由主義とは相容れない部分がある。

ただし、ここでリベラルが重視している多様性は政治的多様性であることに注意が必要となる。経済的多様性についてはリベラルは批判的である。一般にリベラル派は格差の拡大について批判的である人々が多い。市場の自由な経済活動にゆだねていけば格差が拡大するので、積極的な政府による介入で調整すべきと考えられている。このような調整によって公正な競争ができる社会が実現するとリベラルでは考えられている。このような立場の人々がニュー・リベラルと呼ばれ、日本でも「リベラル」という言葉が普及する契機となった。

戦後民主主義の虚妄と革新への忌避感

日本の場合にもう一つ重要なのは革新という言葉への忌避感もあるということだろう。日本の戦後民主主義では、日本社会党を中心に「革新」と呼ばれる左派勢力が一定の力を持った。進歩的知識人と呼ばれる人々が論壇や文壇をリードした。全面講和論や日米安保を巡って保守層と激しく対立し、60年代以降に一部はニューレフト運動へと転換していった。

しかし、革新は教条的平和主義と社会主義に強く影響されていたため、東西冷戦の終結とともに求心力を失った。また自民党と社会党の55年体制は長期に渡る国対政治を生み、社会問題を解決する大きな力とはならなかった。

日本では「革新」というと「主義者」というイメージが強い。中道左派を理念とする勢力も「革新」と自己を定義すると政治的偏りをイメージされる可能性がある。このような革新のトラウマと忌避感が日本をしてリベラルというタームが普及する要因の一つとなったことは見過ごせないと思う。このため、本来はリベラルとは異なる革新運動もリベラルと混同されるようになってしまった。

社会自由主義と友敵理論

政治思想には社会自由主義という分類がある。

社会自由主義とは

社会自由主義は、自由主義の政治思想の一つで、社会的公正を重視する。またモダンリベラリズム(現代自由主義)やニューリベラリズム(ネオリベラリズムではない。新自由主義を参照。)の同義語として使われる場合もある。

古典的自由主義とは異なり、公民権の拡大と同時に、失業、健康、教育などの経済的・社会的課題に対する国家の法的な役割を重視する。社会自由主義者は資本主義を支持するが、社会資本の必要性が資本主義と自由民主主義の両方の前提であると強調し、無秩序なレッセフェール経済を社会資本の必要性の認識が欠けているとして批判する。社会自由主義者は、個人主義や資本主義が、公共の精神や連帯の認識によって加減された時に、自由民主主義は最良の状態になると考える。
Wikipedia 社会自由主義

リベラルを巡る混乱は多いが、リベラルは大きく「社会自由主義」を支持するものと考えると一番しっくりくるように思う。リベラル派の説明として社会自由主義が参照されていければ、リベラルを巡る状況は少しずつ改善されていくように思う。少なくとも教条的左翼とは見做されずにすむだろう。

リベラルと保守の分断と対立を見ていると、カール・シュミットの友敵理論を想起せざるを得ない。政治の本質は友と敵を見分ける事であるという諦念からの絶望感が湧き起こってくるけど、対話と相互理解の努力をやめるべきではないと思う。そのためにはリベラルとは何であるのかを考えていく必要があると思う。

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