江戸幕府はアンシャン・レジームか
「西郷どん」が始まりましたね。今週はてなでは幕末史が分かりづらいのは悪の江戸幕府を薩長が倒したという説明をしているからとするTogetterまとめが話題になっていました。
明治維新を評価する人々は、西郷隆盛や大久保利通らがアンシャン・レジーム(旧体制)である江戸幕府を倒して武家政治を終わらせたことにより日本の近代化が達成できたと思っています。そうでなければ徳川幕府を頂点とする身分制の封建社会が続いていたという考え方です。しかし、幕末には江戸幕府でも身分に依らない人材の登用・西洋技術の導入・議会政治の模索が始まっていました。
特に公議政体論による諸侯会議を中心とした議会政治の導入は明確な新政府構想を抱いていなかった薩長よりも一歩踏み込んだものとなっています。そしてその精神は五箇条の御誓文へと受け継がれましたが、明治初期はこの理念は大きく後退して藩閥政治となりました。自由民権運動が湧き起こるのはだいぶ後の話です。
ここでは公議政体論の代表的な主張者である横井小楠にスポットを当てて幕府側の議会制構想とはどのようなものであったのかを見ていきたいと思います。横井小楠は幕末の儒学者でしたが、雄藩であった越前福井藩のブレーンとして諸侯会議の実現へと奔走しました。明治維新後は新政府の参与となり暗殺されるまで新政府に協力しました。
横井小楠は儒学と西洋思想を融合させて「公共の政」という考え方を生みだし、広く言論を集めて民を救済する政治をおこなわなければならないと説きました。現在の公共政策や公共哲学の先駆けとも言われており、彼の元を吉田松陰・高杉晋作・井上毅・勝海舟・坂本龍馬などの人物も訪れて大きく影響されたとする証言が残っています。
横井小楠の考えた国是七条は、五箇条の御誓文や坂本龍馬の船中八策にも影響を与えました。五箇条の御誓文の草案段階には横井小楠の影響で「列侯会議を興し万機公論に決すべし」と書かれていました。しかし、この書き方では列侯の1人である徳川家が入ってしまうので排除の論理で「広く会議を興し万機公論に決すべし」とぼかされたと言われています。
そんな横井小楠の生涯をアヘン戦争から辿っていこうと思います。
アヘン戦争と海国図志
19世紀初頭、清は日本と同様に管理貿易制度を採用しており、貿易相手国や貿易品目を規制していました。イギリスは東インド会社を通じて清と交易がありましたが、茶葉や絹などを大量に輸入していたため多額の貿易赤字に悩まされていました。
そのためイギリスが植民地としていたインドで生産したアヘンを広東港などから清に密輸し、清から対価として銀を得ることで貿易赤字の解消を目指しました。これにより英中交易は収支が逆転し、清では銀の高騰とアヘンの蔓延によって社会が大きく混乱しました。度重なるアヘン取引禁止令も効果が出ず、広東商人は役人に賄賂を送って密輸を続けるなど腐敗も広がりました。
(中国のアヘン輸入量の推移)
事態を重く見た清の道光帝は林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命してアヘンの取り締まりに当たらせます。林則徐は広東に赴任してから一斉にアヘンの密輸を摘発し、押収したアヘンを焼却して海水につけるなど取り締まりに乗り出しました。
(林則徐)
イギリス議会ではこのような清の対応に対して一気に開戦論が湧き起こりました。与党ホィッグ党はアヘンの輸出を自由貿易の問題と捉え、清が旧弊でもって保護貿易を行おうとしていると糾弾しました。野党のグラッドストンらは清が自国の法でアヘンを取り締まるのは当然のことだと開戦に反対しましたが、議会の採決では271対262で僅差で開戦に賛成の議員が上回りイギリス艦隊が清へ派遣されました。
清はイギリス艦隊の来航に備えて広東に兵力を集結させていました。しかしイギリス艦隊は北上して北京にほど近い天津を攻略しました。北京の清政府は恐れをなして林則徐を欽差大臣から解任し、現在の新疆ウイグル自治区にあたるイリの長官へと左遷しました。その後、講和条約が結ばれますが、清に条約を履行する意思がないことが明らかになるとイギリス艦隊は再び清を攻撃。清国の艦隊は壊滅的な打撃を受けました。
この少し前に林則徐が魏源に西洋も含めた世界の最新の情報を集めるよう依頼していました。魏源は世界中の文献を集め『海国図志』と呼ばれる全50巻から成る地理書を書き上げました。ここにはイギリス国王の即位式やフランス議会の構成、アメリカが連邦国家で州ごとに法律を持つこと、各国の火薬や重火器の製法なども掲載されていました。魏源はこれらの知識を通じて「夷の長技を師とし以て夷を制す」すなわち西洋の優れた技術を学んでそれを使って異国の脅威へ対抗していくことが重要であると説きました。
残念なことに魏源の『海国図志』は林則徐の更迭やアヘン戦争後の清の動乱もあってほとんど中国国内で読まれることはありませんでした。しかし、この『海国図志』が翻訳されて積極的に読まれた国がありました。幕末の日本です。日本には清やオランダそして琉球を通じてアヘン戦争での清の敗北が伝わっていました。清の敗北に衝撃を受けた幕府は軍事力で西洋諸国に対抗するのは不可能であると考え異国船打払令を撤回し、異国船が現れたら水や薪を提供するよう対外政策を軟化させました。
異国船の軍事的脅威が現実問題になりつつある中で、日本では幕府中枢のみならず諸藩の下級武士や町民なども『海国図志』が読まれることになりました。
横井小楠と儒学そして水戸学
(横井小楠)
横井小楠は熊本藩士の次男として1809年に生まれました。藩校であった時習館で儒学を学び学問に優れて居寮長(塾長)となりました。藩に時習館の改革を建白しますが藩内の反対でうまくいかず、居寮長を解任となって江戸へと遊学することになりました。江戸では水戸学に傾倒しました。
徳川光圀が『大日本史』を編纂した水戸では、武家社会が成立する以前の日本の歴史も参照しながら儒学の朱子学を中心に「正名論」などの尊王論が議論されていました。藤田幽谷が『正名論』において「幕府、皇室を尊び。則ち諸侯、幕府を崇める。諸侯、幕府を崇める、則ち卿・大夫、諸侯を敬う。萬邦協和」と著述しているように、幕府は伝統的権威である皇室を尊ぶことによって大名諸侯が幕府に従うのであって、これが万邦共和の条件であるとされていました。また、世界の中でもこのような伝統的権威が存在するのは日本のみであることも強く主張されています。
異国船の脅威が現実問題となってくると水戸学において尊王論と攘夷論が結実し、尊皇攘夷思想へと発展していきます。水戸の会沢正志斎は『新論』を著して「謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極御し、終古易らず。固より大地の元首にして万国の綱紀なり」と、日本は太陽のいずる神州で日本人は太陽神の子孫であり、世界の道徳の中心であると主張しました。そして天照大神は儒学の天と一体であり、それゆえに儒教の考え方に立つならば皇室を敬って日本を夷狄から守らなければならないと唱えました。
儒教は公儀(徳川幕府)の身分制社会を支えるイデオロギーでしたが、水戸学の儒学においては必ずしも幕府を絶対視せず、幕府の権威は日本古来からの伝統を持つ皇室によって与えられたものであり、公儀とは皇室を頂点とする国体であると考えられました。それ故に幕府は皇室を敬って夷狄から日本を守らなければならないとする国防論へと転換していきます。この考え方は水戸藩内だけではなく佐久間象山や吉田松陰など幕末の思想家に大きな影響を与えました。明治維新まで至る一連の流れは日本の儒学の近代的アイデンティティの再発見の歴史でもありました。
横井小楠は儒学の根本は経世済民であり民を救済する道であると考えました。しかし、朱子学はいまや形骸化して解釈学になっており、これからの朱子学は現実を変えていく力にならなければいけないと考えました。横井小楠はこれを「実学」と呼び、熊本へ帰郷後に「実学党」と呼ばれる集団を形成していきます。
堯舜三代の治とアメリカ合衆国
横井小楠によれば朱子学の理想は『書経』の「堯舜三代の治」に遡れると考えていました。古代中国の伝説上の統治者である堯帝と舜帝、そして夏の禹帝、殷の湯王、周の武王の三代の統治こそが理想であるとし、君主が仁愛に溢れた善政を行い禅譲(世襲ではなく優れた人に位を譲ること)が重要であると説きました。
太平の世の故事成語として「鼓腹撃壌」がありますが、『十八史略』では尭帝の時代に老人が歌ったとされる歌が載っています。堯帝の時代には民を思う善政が敷かれ太平の世であったため、宮殿はかやぶき屋根で端はバラバラであり、宮殿にあがる階段は土で作られた三段だけの粗末な物であったと言われています。堯帝は民が平和に暮らしているか知るべく変装をして町に出ました。そこで老人の歌を聞きました。
撃壌之歌
有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、
日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉老人有り、哺を含み腹を鼓うち、壌を撃ちて歌ひて曰はく、
日出でて作し
日入りて息ふ
井を鑿ちて飲み
田を耕して食らふ
帝力何ぞ我に有らんや老人が食べ物をほおばり腹つづみをうち、足で地面を踏み鳴らして拍子をとって歌った。「日が昇れば耕し 日が沈めば休む。水が飲みたければ井戸を掘って飲み 食べ物を食べたければ田を耕す。帝の力がどうして私に関わりがあろうか」
天空の城ラピュタに出てくるゴンドアの谷の歌のような歌ですね。世の中が平和になって人々は皇帝の威光など関係ないと思うほどの生活を謳歌していた歌と言われています。
横井小楠は小楠堂と呼ばれる私塾を始め、その最初の門下生には徳富蘇峰や徳富蘆花の父である徳富一敬が入門しました。横井小楠の私塾の評判は藩外にも知られ、吉田松陰や坂本龍馬、井上毅も小楠の自宅を訪れました。
横井は私塾で蘭方医の内藤泰吉とともに魏源が著した『海国図誌』を3ヶ月に渡り輪読したと言われています。そこに書かれていた西洋諸国の現状に強い衝撃を受けることになりました。小楠が家老となる立花壱岐に宛てた手紙では「近比夷人の情実、種々吟味に及び候処、中々以前一ト通り考候とは雲泥の相違にて実に恐敷事に御座候」と今まで伝え聞いていた西洋諸国の話と『海国図志』に書かれていた実情とは雲泥の差で、ただ軍備を固めただけでは勝てないのではないかとする所見を書いています。
特に横井小楠が驚いたのはアメリカが独立したときにジョージ・ワシントンが大統領の地位を自分の子どもに譲るのではなく、それを民衆の中から選ばれたジョン・アダムズに譲ったことでした。小楠はこれを「堯舜三代の治」を実現していると賞賛し、次のような詩をつくりました。
君聞かずや,洋夷各国治術明らかなり。
励精よく上下の情に通じ公に人材を選び俊傑を挙ぐ。
事あれば衆に詢ひて国論平らかなり。
うすく税斂をとりて民貧しからず。
厚く銭糧を貯えて勁兵を養ふ。
われ聞く敵国の強きは我の力たり。
今にして警戒し国を興すべし。
危をたすけ傾を起すにその人あらん。
閑人といへどもまさに閑園を払ふべし
西洋諸国は身分の上下に関係なく広く優れた人材を登用し、政治のことは民衆に聞いて決定し、税金が安くて民衆が豊かであり、糧食を蓄えて強力な兵力を養っていると指摘しました。西洋諸国の強さに学び日本も強くしなければならないと歌っています。
福井藩から講師としてのオファーが掛かります。これをきっかけに横井小楠は福井藩に身を移して福井藩の教育や藩政に従事することとなります。
安政の大獄と水戸藩のピストル
(松平春嶽)
福井藩では福井藩主の松平春嶽が橋本左内らを使って藩政の改革を行い、雄藩として幕府にも強い影響力を持っていました。ペリー提督の艦隊が来航したときには薩摩藩主の島津斉彬らと一緒に攘夷を主張しましたが、その後は開国派へと転向しました。
黒船来航の19日後に第12代将軍の徳川家慶が熱中症のため急死。徳川家定が跡目を継いで将軍となりました。しかし、徳川家定は暗愚であり人前に出ることを嫌い、現代でいう脳性麻痺と思われる症状で病弱でもあったため、再び将軍後継問題が浮上しました。幼少であった徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派と、一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派の対立が生まれました。
松平春嶽は水戸藩主・徳川斉昭や薩摩藩主・島津斉彬や土佐藩主・山内容堂らと共に一橋派に属していました。老中の堀田正睦らは一橋慶喜を将軍とし松平春嶽を大老として事態の収拾をはかろうとしましたが、徳川家定は後継として徳川慶福を指名し、徳川南紀派の井伊直弼を大老としました。さらに家定は一橋派の処分を発表して死去しました。
大老となった井伊直弼は朝廷からの勅令を待たないままアメリカと日米修好通商条約を締結し、これに激怒した朝廷側は孝明天皇の名前で「戊午の密勅」と呼ばれる文書を水戸藩へと下賜しました。この戊午の密勅では孝明天皇の名前で、日米修好通商条約を締結した幕府への批判と攘夷を決行するように記されていました。これを知った井伊直弼は朝廷の関係者や一橋派の粛清と、幕府の方針に逆らう学者や思想家なども含めた大弾圧を開始します。いわゆる安政の大獄の始まりです。松平春嶽にも謹慎処分が言い渡されました。
薩摩藩では島津斉彬が安政の大獄の抗議のために西郷隆盛らが兵5,000を率いて上京して孝明天皇からの内勅を得ることを計画しますが、その計画の途中で島津斉彬が病死して中止となりました(毒殺説もあります)。水戸藩を脱藩した浪士達と薩摩藩士が井伊直弼が江戸城に向かう途中の行列を襲撃しました。水戸浪士の黒澤忠三郎が井伊直弼の籠に向けてピストルを撃ち、それを合図に浪士達が抜刀して行列に斬り込んでいきました。
従来は井伊直弼はこの時の刀傷で命を落としたと言われていましたが、最近の研究では井伊直弼の死を検分した記録では刀傷で出るはずの大量の血痕が少なかったと記されていること、彦根藩の行列は70人ほどの大行列であったこと、井伊直弼は剣術に優れていたことなどから、最初のピストルが命中して致命傷を負ったのではないかとする説も出てきています。
開国して間もないのに襲撃した浪士達はなぜピストルを持っていたのでしょうか。襲撃に使われたピストルはペリー提督が来航したときに幕府に献上したコルト社製のM1848リボルバーの模倣品であったと記録されています。このM1848リボルバーは水戸藩主の徳川斉昭が水戸に持ち帰り、水戸で模倣品の製造が行われていました。日本の開国を進めてきた井伊直弼は、皮肉にも開国時にペリー提督が持ち込んだピストルの技術によって命を奪われることになりました。
水戸藩の下級武士であった浪士達がピストルを容易に入手できたとは考えにくく、水戸藩主・徳川斉昭が桜田門外の変の黒幕であったのではないかと考える人もいます。この時に使われた銃は靖国神社の遊就館に保管されていましたが、戦後になってGHQが接収してアメリカに持ち帰り、1987年に日本の古式銃研究家が買い取ったと言われています。しかし、このピストルが本物であるかはまだ正確には分かっていません。
安政の大獄によって福井藩でも橋本左内が将軍後継問題に手を貸したとして処刑されました。橋本左内は近い将来、五大陸の間で同盟が結ばれて1つの政府が成立して、戦争は収束の方向に向かうと考えていました。現在の国際連合に近い将来予想です。そしてその盟主はイギリスかロシアになるだろうと唱えていました。日本もイギリスにつくかロシアにつくか迫られることになると考えていました。イギリスは貪欲であり冷静沈着なロシアが支持されるだろうという予測の元に、日本とロシアが同盟を結ぶべきだと考えました。そして日本はロシアやアメリカから人材をどんどん受け容れて富国強兵に励まなくてはならないと主張しました。日本はこのような先見の明があり大局的な視点に立てる人物を失うこととなります。
国是三論とアダム・スミス
橋本左内を失い、改革の続行か中止かで揺れる福井藩のために横井小楠は『国是三論』と呼ばれる書物を書きました。この『国是三論』は、交易の意義を説く「天・富国」、交易のためには海軍の増強が欠かせないと説いた「地・強兵」、武士の心構えを書いた「人・士道」の三論から成ります。外国との交易では信義が重要であり、殖産興業に努めて軍備を強化していくのが経世済民の道であると説きました。のちに明治政府が行うことになる富国強兵の先駆けと言えます。小楠の『国是三論』には次のように書かれています。
官府其富を群黎に散じ、窮を救ひ弧を恤み刑罰を省き税斂を薄し、教ゆるに孝悌の義を以てせば、下も好生の徳に懐ひて上を仰ぐ事は父母の如くなるに至らば、教化駸かに行はれて何事をか為すべからざらん
政府はその富を民衆のために使い、貧困層や孤児を救済して刑罰を軽くして税金を減らし、教育は義をもって行えば、民衆も仁愛の徳によって父母を慕うように政府を慕うと唱えました。そして、世界の政治を論じる力量があって初めて日本を治めることができ、日本を治める力量があって初めて一藩を治めることができると指摘しました。
産業振興の施策として増産の意欲がある者に対して政府が資金を貸与し、政府は利息で利益を取ることが提案されました。研究開発では政府がまず率先して基礎研究を行い、その成果を民間に還元していく必要があるとしました。政府は税収を公開して税金を用いて民を救済するべきという福祉の発想も唱えられていました。
儒教の天の思想に立って富の増産が社会にとって重要と考えた横井小楠の考え方は、キリスト教の考え方を出発点として資本主義を分析していった西洋の古典経済学とどこまで共通点があるのか、高崎経済大学の山崎益吉氏や立命館大学の小野進氏がアダム・スミスの『道徳経済学』や『国富論』との比較として考察しています。
この構想は、おおよそ30年後の『国是三論-富国論』で具体的に展開されることになる。富国論の展開はスミスとまったく同じ視点で論じているし、pubic thingが市民社会の秩序づけになるという点でも一致している。市民の共通財産を充実し、自立的な体制を形成することが『国富論』の真の目的であったように、横井小楠の富国論も同じである。それゆえ、この基本認識さえ押さえていれば労働価値論や生産性などの問題は、たいした問題ではない。市民の物的基礎が来るべきopen society、近代市民社会の秩序づけになると考えていたわけであるから、小楠は近代日本の父と言っても過大評価にはならないであろうし、日本における経済学の父と言えなくもない。(「横井小楠と道徳哲学 ーA.スミスとの比較においてー」)
国是七条と公共の政
井伊直弼の暗殺によって安政の大獄は収束に向かいました。薩摩は島津斉彬の死後に島津久光が兵を率いて京に上洛し、松平春嶽を大老とするように幕府に要求しました。このような働きかけもあって松平春嶽は幕府の中で新しく新設された政事総裁職という地位に就きました。中央政界への再進出を果たした松平春嶽のために横井小楠は国是七条と呼ばれるアイディアを伝えました。
国是七条
- 大将軍上洛して列世の無礼を謝せ
- 諸侯の参勤を止め述職となせ
- 諸侯の室家を帰せ
- 外様、譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ
- 大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ
- 海軍をおこし兵威を強くせよ
- 相対交易をやめ官交易となせ
まず将軍が上洛して今までの朝廷への無礼を詫びるべきだとしました。これは徳川幕府が絶対であったイデオロギーの終焉を促すものでした。また、参勤交代で諸大名に負担を強いることや江戸に人質を置くことをやめるべきだと主張しました。そして外様大名や譜代大名のような家柄に関係なく有能な人材を登用すべきだと説きました。さらに言論を活発にして世論に従って「公共の政」を為すようにと説きました。海軍を強化して自由貿易ではなく政府主導で貿易を切り開くように唱えました。
開国して間もない幕末の日本にはまだ「公共の福祉」や「公共の利益」などの概念はありません。そしてそれらの概念が日本で明確に確立されたのは第2次世界大戦に敗北してからでありました。しかし、横井小楠は既にこの頃から「公共の政」という概念や用語を生みだして使っていたことになります。また、このような公共の政は言論を活発化して身分に関係なく人材を活用していくことで実現されると考えていました。
国是七条は坂本龍馬の船中八策とかなり似ています。時期的にはもちろん横井小楠の方が先であり、坂本龍馬の船中八策はこの国是七条の影響を受けてつくられたものと思われます(なお船中八策は本当に坂本龍馬が作成したものなのか疑問を抱く説もあります)。
船中八策
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿諸侯及び天下の人材を顧問に備へ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立づべき事。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。
一、海軍宜しく拡張すべき事。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
横井小楠の提案もあり、ほどなくして京都では朝廷の任命で参預会議と呼ばれる合議制の会議が設置されました。将軍後見職・徳川慶喜、福井藩主・松平春嶽、薩摩藩主の父・島津久光、土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城、会津藩主・松平容保の6人から成る会議です。
後編へ
疲れた…。反響があったら後編を書きます。
- 作者:松浦 玲
- 発売日: 2010/10/08
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- 作者:横井 小楠
- 発売日: 1986/10/09
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