「スポーツが健全な精神を養う」という言説について
日馬富士の暴行が連日ニュースになっている。これは貴ノ岩が重傷になって明るみに出た氷山の一角で本当はこの手の暴行は日常茶飯事だったんだろうなと思う。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」ということが世間ではよく言われていて、スポーツマンシップの精神と合わせて、スポーツをして体を鍛えると強く健やかな心が養われてフェアの精神が根付くと考えている人はけっこう多い。「心と体は同時に鍛えられる」とする発想である。私の学校時代の体育教師も常々そう言っていた。
でもスポーツ選手の暴行や不正などを見ていると健全な精神と健全な肉体は何ら関係が無く、強い心も養われるとは限らないと思っている。毎日熾烈な稽古で体を鍛えて横綱になるくらい強くなっても、話し相手がスマホを弄っているとブチ切れてビール瓶で殴るくらいの健全な心とフェアの精神しか養われていなかった。
角界だけではなく今年7月に巨人の山口俊投手が病院で暴行事件を起こすなど、他のスポーツ界でも暴行事件の話は後を絶たない。イジメやしごきで命を落とした人もいる。八百長の話や賭博の話もよく聞く。倫理観とスポーツは何ら関係ない独立変数なのだと思う。
サッカーの試合を見ているのが辛い
3年前に「サッカーで苛められていた。日本代表には早く負けてほしい」という記事を書いたけど、私はサッカーの試合を見ているのが辛い。
「お前はボール蹴るんじゃねえ!」と体育のサッカーの授業でいじめられていたことを思い出すのもそうだが、サッカーの試合は反則の連続でよく痛ましい衝突があって笛が鳴る。相手に蹴られた選手が倒れて痛みをアピールしている。観客のブーイングが起き、テレビやネットで見ている人も「ひでえ」と憎悪の声を上げる。その光景と反応を見るのが私はすごく辛い。オリンピックも苦手だ。
スポーツマンシップやフェアの精神というのはスポーツをしていることによって心が強くなって身につくのではなくて、その強靱な肉体の暴発を押さえるための最後の歯止めとして強制的に守らされているのだと思う。元々スポーツの発祥も戦争の代替という側面があったし、ナショナリズムにも近い。
だからスポーツをすればするほど人間は好戦的になっていくし、憎悪もまた増大させていくのかなと思う。闘争心というキーワードもスポーツではよく聞く。もちろん例外は存在してスポーツに長けた人格者も存在するけど、それはスポーツによって養われたものではなく属人性の高い領域だと思う。アスリートに高度な倫理観を求めるのは筋違いだろう。
スポーツの野蛮性とプロパガンダの虚構性
スポーツをやっているだけでは健全な精神やフェアの精神は養われない。むしろ阻害要因にもなりえる。
スポーツは本来野蛮なものだ。決して高尚なものではない。近代スポーツはスポーツを高尚な行為として称揚してきたため、このようなスポーツの野蛮性が隠蔽されスポーツ・プロパガンダや言説を無批判に信じている人々が草の根レベルで大勢いる。
スポーツは必要だと思うけど、その野蛮さについて自覚的であるべきだし、それによって人格が養われるものではない。近代スポーツが隠蔽してきた構造について世の中はもっと気づいていくべきだと思う。
そしてこのようなプロパガンダから中立な科学としてのスポーツの体系化ももっと必要であると思う。スポーツと心は本来何の関係も無い。スポーツをしていても強い心が養われるとは限らないのだ。
「スポーツの野蛮性の実在よりはスポーツマンシップの虚構性に賭ける」というならば止めない。しかしそれは個人の信心の問題に他ならないだろう。
幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)
- 作者:橋本 一夫
- 発売日: 2014/01/11
- メディア: 文庫