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日本軍の原爆製造計画 ー機密資料・上海の闇市・福島県石川町ー

   

日本軍の原爆製造計画

ウランの核分裂により発生するエネルギーは莫大にして之が工業的に量は実に技術界の革新にして燃料、電力等の問題は悉ちにして解決せらるる重大な意義を有す
(陸軍航空技術研究所報告書)

昨日ははてな村で第二次世界大戦の本土決戦の話題が出ていたので、福島県のご当地ブロガーとして原子力の記事を書こうかな。1943年〜1945年まで日本の戦局挽回の期待が掛かっていた原爆製造計画について記事にします。日本は第二次世界大戦に参戦してから、陸軍と海軍でそれぞれ別々に原爆製造計画が進められていました。

陸軍(航空本部)の原爆製造計画は「二号研究」と呼ばれていました。「二号」は理化学研究所で二号研究の主席研究員だった仁科芳雄のイニシャルから取られたものです。一方、海軍の(艦政本部)原爆製造計画は「F研究」と呼ばれていました。「F」は核分裂(Fission)より取られたものです。この段階から既に陸軍と海軍の縦割りが存在しました。

日本の原爆製造計画については、Wikipediaの「日本の原子爆弾開発」記事に比較的よくまとまっています。Wikipediaで記述されているように、日本の原爆開発(特に二号研究)は、容器に濃縮させたウランを入れ真水(軽水)を掛けることによって臨界させるという仕組みを採用していました。東海村で起きたJCOの臨界事故と似ている部分もあります。

ここでは、Wikipediaに載っていない情報を山崎正勝『日本の核開発 1939〜1955』を参照しながら書きます。

陸軍の二号研究の研究計画書

以下は、研究動員会議に提出された二号研究の研究計画書と実施要領です。


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(山崎正勝『日本の核開発 1939〜1955』)

海軍のF研究の機密資料

以下は、研究動員会議に提出された研究計画書と実施要領です。


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(山崎正勝『日本の核開発 1939〜1955』)

ドイツ・朝鮮・上海の闇市

陸軍は同盟国のドイツにウラン輸送を依頼しました。ドイツからチェコスロバキアで採掘されたウランを載せて2隻の潜水艦が日本へと出航しました。しかし1隻(U864?)は撃沈され、もう1隻(U234)は日本への輸送中にドイツが降伏したためアメリカ海軍に投降しました。乗艦していた日本人将校は降伏時に自決しています。

陸軍航空本部は、朝鮮の黄海道延白郡にある菊根鉱山に目をつけ、朝鮮総督府がウランの採掘を進めました。これにより120〜150kgの酸化ウランを得られたとされています。

海軍では、海軍技術研究所の北川徹三の証言によると1945年春頃にある機関(名称不明)を経由して上海の闇市で酸化ウラン100kgを買い取り、海軍技術研究所に保管されたと言われています。戦後の米軍の調査でも当時の上海に270kgの酸化ウランが存在したとする報告書が残っており、この証言を裏付けるものとなっています。入手経路があやしいですね…。

福島県石川町でのウランの採掘と計画中止

日本国内でのウラン採掘は福島県石川町で行われました。1944年7月18日に陸軍兵器行政本部が第八陸軍技術研究所にウラン探査・採掘を指令。第八陸軍技術研究所では、希少元素鉱物が発見されてウラン塩を精製することに成功した石川町に目をつけました。石川町では1月延べ5,000人(経験者60人、経験を必要としない日雇い作業員140人)の動員が開始されました。

日雇い作業員として動員されたのは、地元の大日本婦人会の女性と石川中学校の生徒でした。石川町中学校の生徒は高い放射線を発するウラン化合物をスコップで掘りながら、1945年6月までに約750kgのサマルスカイトを採掘しました。石川中学校の生徒であった有賀氏の証言によると、陸軍の軍人から以下のような説明があったそうです。

「君たちの掘っている石がマッチ箱一つくらいあればニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい」

【中日新聞・特集「日米同盟と原発」】第10回「証言者たち」silmarilnecktie.wordpress.com

しかし、この750gのウラン資源が理研に送られることはありませんでした。1944年に撃墜したB-29から回収した地図で理研が重要爆撃目標となっていることが知られることになりました。このため理研の設備を他所に移す計画が始まったのですが、間に合わずに理研でウラン濃縮を行っていた拡散筒が空襲により焼失。二号研究は計画中止を余儀なくされます。

計画中止の決定があってからも、石川町では少年によるウランの採掘が終戦まで続けられました。この理由は二号研究に関する文書の多くが焼失したためにまだ分かっていません。

1945年の日本のウランの総量

以上のルートを経由した1945年の日本のウランの総量は多く見積もって1トン程度と推測されます。アメリカでは政府が民間の調査会社ユニオン・マインズ社に依頼して世界各国のウランを調査させていますが、この報告書でも日本は「年間1トン以上のウランを生産することはできない」と記載されています。戦後にGHQが、F研究の主任研究員だった京都帝大の荒勝文策に日本国内のウランを報告するように指示しましたが、その報告もこの推測を裏付けるものとなっています。

それではアメリカはどれくらいのウランを保有していたのでしょうか。先のユニオン・マインズ社の調査によると、3,670トンの酸化ウランが確保されていると報告されています。さらに1946年までに2,450トンの確保が予定されていました。日本の6,020倍のウランを保有していたことになります。また、日本の原爆開発は終戦間際でも基礎研究の段階を抜けていませんでした。

原爆開発競争でも勝つのは無理ゲーだったことになります。

参考資料

このような日本の原爆製造計画に関しては、山崎正勝『日本の核開発 1939〜1955』に詳細にまとめられています。作者は物理学者・科学史学者で、この本によって科学ジャーナリスト賞を受賞しています。理研の核実験設備の仕組みに関しても解説されていて、核兵器の仕組みを知る上でも参考になります。

以下は『日本の核開発 1939〜1955』にも載っている二号研究の分離塔の構造図です。

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