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幻の東京オリンピックの本を読んだら既視感がすごかった

   

幻の東京オリンピック

1940年に開催されるはずだった幻の東京オリンピック。日中戦争など国際情勢の悪化により返上されますが、この東京オリンピックは関東大震災の時の東京市長であった永田秀次郎が再び東京市長に互選された頃から招致活動がスタートしました。1940年は皇紀二千六百年にあたることから、国威発揚の皇紀二千六百年記念事業として強力に推進されました。

幻の東京オリンピックとはどのようなものであったのでしょうか。橋本一夫『幻の東京オリンピック』は1994年に書かれた幻の東京オリンピックについての書籍ですが、この本を読んでいたら既視感が凄かったので、今回はスタジアム選定に焦点を絞って紹介します。

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(1940年の東京オリンピックのポスター)

東京オリンピックのメインスタジアムを巡る動き

月島を活用して関東大震災からの復興をアピールする計画

当初、東京市はメインスタジアムなど主要施設の建設場所として月島の埋め立て地を活用する計画でした。この埋め立て地に巨大スポーツ施設を建てて新たに万博も開き、都市計画によって関東大震災からの復興を世界にアピールすることが考えられていました。月島の埋め立て地は広い土地を自由に活用することができましたが、海からの風が強く競技に支障が出るという懸念が出されていました。

この懸念を解消してIOCベルリン総会に間に合わせるため、急きょスタジアム会場として神宮外苑競技場を拡張する計画がIOCに提出されました。この計画が提出されて以降も東京市は月島案を主張していましたが、組織委員会では明治神宮を中心とする地域への競技場建設の検討を進めており、両者の見解は食い違うこととなりました。組織委員会では、第一候補地として明治神宮の隣接する陸軍練兵場、第二候補地を千駄ヶ谷の民有地、第三候補地を青山射撃場跡、第四候補地を駒沢ゴルフ場跡に選定しました。

会場選びの迷走

しかし、第一候補地は陸軍の同意が得られず、第二候補地の民有地の買収は難航し、第三候補地の青山射撃場跡を推薦することが決まりました。この推薦方針が決まった後も、IOC委員の副島道正が神宮外苑を拡張する私案を発表、東京市と横浜市もヨット会場を芝浦沖にするか横浜沖にするかで対立するなど、会場選びは迷走します。

東京招致決定から半年が経過しても競技場が未定という事態は世界各国にも外電で伝えられ、メディアで報道されることになりました。IOC会長バイエ=ラトゥールも会場選定に関する懸念を日本の組織委員会に伝えています。組織委員会は最終的に神宮外苑競技場を拡張する計画に決定しました。

読売新聞の批判

読売新聞は1937年2月24日付の紙面で、組織委員会と東京市の混乱を次のように批判しています。

「如何せん、各委員とも排他的の島国根性を露骨に発揮して譲らず、いつの会合も勝手な熱の吹き合ひに終始して纏まらず、すっかり揉みくちゃにされた結果は現在の外苑施設を改造拡張するといふ変哲のない極めて貧弱な案に落ち着いてしまった。…

この貧弱施設と相並んでスポーツ界を失望させているのは、組織委員会において…事毎に意思の疎通を欠いて歩調が揃はないことで…わがNOCの甚だしい無統制が暴露され、東京市側が頻りと駆引戦術を行った結果、会議の方向は兎もすれば軌道を外れがちであり、このまま推移すれば『東京大会が果たして無事に開けるだろうか?』とまで憂慮の起こってくるのも至極当然といはねばならない」

現代の東京オリンピックの準備活動でもよく見掛ける光景ですね。

神宮外苑競技場の頓挫と紀元二千六百年記念総合競技場

この明治神宮外苑競技場を拡張するという案も、内務省から強い反対に遭い頓挫します。組織委員会の第十五回総会において内務省神社局は、明治神宮が明治天皇ゆかりの極めて由緒のある場所であるとして外苑競技場の拡張に強硬に反対しました。組織委員会と内務省が折衝を重ねて神宮外苑競技場の拡張計画もまとまりましたが、その収容能力は5万人。東京市が想定していた12万人以上の巨大スタジアムには到底及ばないものでした。

このため東京市と組織委員会で急浮上で新たなスタジアム建設案が考案されました。神宮外苑競技場ではなく、駒沢のゴルフ場跡地に新たにスタジアムおよび水泳競技場や選手村を建設するという計画です。組織委員会の第二十五回総会でスタジアムの建設地が駒沢に決定し、「紀元二千六百年記念総合競技場」と命名されることに決まりました。

IOC会長に宛てた手紙と物資不足

この頃、1938年5月18日にIOC委員であった副島道正がIOC会長バイエ・ラトゥールに宛てた手紙の日本語訳です。

「メインスタジアムの建設地が駒沢に変更され、神宮外苑の時のように内務省の制約を受ける必要がなくなりました。東京市は、競技場のほか関連道路にも多額の資金を投入する予定です。いまや、すべては順調です。日本政府は国民に節約を呼びかけていますが、物資は羊毛を除いて充分にあり、なかでも食料品は豊富です。第二十回オリンピック大会は大成功を収めるでしょう」

(『幻の東京オリンピック』)

しかし、メインスタジアム建設は順調ではありませんでした。日中戦争と統制経済のため建設に必要な鉄などの資材や資金が不足していました。東京市はメインスタジアム建設のための債権を発行することを決めましたが、鉄などの資材は軍事優先のため確保できずスタジアムの一部を木造で建設する計画に変更されました。

参考書籍『幻の東京オリンピック』

橋本一夫『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』(講談社学術文庫)は、このような1940年の東京オリンピックを巡る経緯が詳細に書かれています。

他にも満州国選手団の参加問題、天孫降臨の神話に基づき聖火リレーを高千穂からのスタートさせる構想、ベルリン大会を上回るテレビ中継技術の開発、各国の東京オリンピックボイコット運動、政府や軍によるオリンピックを通じた国威発揚計画などもこの本に載っています。