相馬の思い出の景色を撮影してきた
今日は散歩がしたい気分だったので、相馬市内の思い出のスポットを歩いて撮影してきました。
「こころざしを果たして いつの日にか帰らん」と思っていたけど、志を果たせないまま帰ることになったことが無念ですが。
一眼レフカメラとレンズは台湾旅行の旅費捻出のために売ってしまったので、スマホ撮影(Nexus6P)ですみません。
スマホで写真を撮っていて思ったのですが、頑張れば何とかある程度のレベルの写真は撮れそう。こちらは黄昏時の宇多川を撮影した写真です(私の実家の近所)。
山は蒼き故郷、水は清き故郷。
相馬市役所
まず昨日完成したばかりの相馬市役所に行ってきました。
老朽化が進んでいた旧庁舎はこちら。
それが昨日からこんな倉をイメージした新しい庁舎に変わりました。復興予算がけっこう残っているのかな。
完成したばかりの庁舎には贈られてきたお花が飾られていました。
1階は市民のよく利用する窓口が並んでいるのですが、その中にある「放射能対策室」の重み。
待合室はけっこうガラガラでした。
相馬藩は天明の飢饉の時に総人口の3分の1が餓死などで減少するのですが、二宮金次郎の二宮仕法を元に質素・倹約を中心とする藩政改革や農地改革を行い、財政再建に成功します。地元では二宮尊徳と呼ばれています。その二宮尊徳のゆかりの墓が市役所に展示されていました。
相馬市の歴史コーナーでは「相馬市民号」の電車の写真も展示されていました。
昭和33年頃の相馬市の広報誌。
相馬港が開港した時の写真。相馬港も東日本大震災で甚大な被害を受けますが、現在はだいぶ復旧に成功しています。福島の海では漁獲制限があるので漁業は本格的な復興には遠いですが。
スポーツアリーナそうま・相馬市民会館・郷土資料館
相馬のスポーツ施設も、私が小学生の頃に空手を習っていた頃は三道会館(柔道・剣道・弓道そして空手)という古い木造建築だったのですが、現在はスポーツアリーナそうまが建てられています。屋内プールも完備しています。
この場所は旧カネボウシルク工場の跡地。カネボウシルク工場では蚕の養蚕が行われて、お湯を流し込んで繭の中の蚕を殺して絹製品を作るのですが、工場周辺はとんでもなく臭かった。カネボウシルク工場跡地は東日本大震災の時に自衛隊が接収して救助活動の対策本部が置かれました。
相馬市民会館も新しく建て替えられていて、もう間もなく完成します。しかし旧市民会館では映画が上映されていたのに、新市民会館は映画が上映できないそうです。「君の名は。」を見るには仙台か福島市に行くしかなさそう。
二宮尊徳の報徳訓が記された石碑も置いてありました。
相馬の郷土資料館にも行ってきました(大人100円)。撮影は基本NGとのことで相馬家の甲冑などは撮影できなかったですが、古墳時代に相馬の古墳から出土した馬の埴輪を撮らせてもらいました。
こちらは紀元前1000年位前の相馬の地層から出土した縄文土器。いまは亡き母も縄文時代の遺跡発掘のバイトをしていたことがあって、相馬の山の方で縄文時代の土器を発掘する手伝いを行っていました。
相馬中村城のお堀です。お堀を囲むように市の施設や小学校が建てられています。
中村第一小学校・相馬地方裁判所・相馬高校学校
私が通っていた相馬市立中村第一小学校もお堀の近くにあります。校舎は新しく建て替わっているので、もう思い出の校舎は存在しないですが…。
校舎を少し覗くと緑のカーテンが育てられていました。
小学校の校歌は今までの校歌の中で一番好きです。「すくすく伸びて明日はまた 自由日本の盾となれ」「すくすく伸びて明日はまた 平和日本の歌となれ」子供の頃にはこの歌詞は難しかったですが、大人になってその意味の重要さに気づきました。私は自由日本の盾となれているだろうか、と思い返します。
小学校の隣のある文房具屋さん「マルエス」。小さい頃の私はここで文房具を買うのが大好きでした。
小学校の近くにはキリスト教系の幼稚園があったのですが、今は教会に建て替わっていました。私の中学の時の初恋の女性もクリスチャンだったので、毎週日曜日には礼拝に行くと言っていたことを思い出しました。
人口3万5千人の小さな街ですが、相馬地方裁判所が設置されています。
相馬高校に向かう途中で焼肉屋さんに寄らせてもらって写真を撮らせてもらいました。この焼肉屋さんは読売ジャイアンツのプロ野球選手・鈴木尚広君の生家。鈴木尚広君は私と相馬高校の同期です。鈴木君と学科が違っていたので直接の接点は少なかったですが、指名を受けた当時の相馬高校は祝賀ムードに包まれていました。私も野球番組で時々応援したりしていました。
相馬高校の様子。こちらも校舎は既に建て替わっています。相馬高校は福島県で4番目に古い旧制中学が発祥なので、旧制中学時代の表札も残されています。
相馬高校の卒業生には、第二次世界大戦のフィリピン沖決戦(捷一号作戦)で初めて結成された神風特攻隊に参加した卒業生がいます。海軍予科練で学んだ後にフィリピンに配属されますが、そこで上官から戦闘機に爆弾を積んで敵艦隊に体当りする作戦を告げられ、日本で最初の神風特攻隊に志願して戦死しました。その卒業生について相馬高新聞で書いたのを思い出しました。
こちらは相馬高校の向かいにあった旧相馬女子高跡地。現在は廃校になっていて、この建物は当時のままです。高校時代に私が行きたくて堪らなかった場所でした。
東日本大震災の時には旧相馬女子高が臨時の死体安置所になりました。海岸部から続々と運ばれてくる津波で亡くなられた方の遺体が置かれて、身元の特定作業に使われました。現在は閉鎖されています。相馬女子高は、共学化により相馬東高校と名前を変えて別な場所に新校舎が建てられています。
中村神社
相馬高校の裏手には、相馬中村城の跡地があり、相馬神社と中村神社が残されています。
こちらは相馬中村城で二の丸だった広場を使ってつくられた長友グラウンド。相馬野馬追の出陣式もここで行われます。東日本大震災の時は自衛隊が接収して、救援活動用ヘリなどの離着陸に使われました。
中村神社の入り口。狛犬と並んで馬の像が置かれています。中村神社の宮司の長女とは小学校の時に同級生で一緒に遊んだりしました。その後、紀子様の弟に嫁いだのですが、同級生の子の不倫スキャンダルが週刊誌で発覚して離婚して今は相馬に帰っています。
神社の中で同級生っぽい女性を見つけたのですが、人違いだと悪いのでコミュ障な私は声を掛けずに素通りしてしまいました(^_^;) 本人なら挨拶したかった。
中村神社の前には多数の灯籠が建てられています。
中村神社の由来。
中村神社では夫婦スギという杉の木が祀られています。これは2本の杉が重なりあって大きく成長しているもので、国の天然記念物にも指定されています。
中村神社の中にある北野天満宮。学問の神様です。
中村神社の参拝路。かなり急な石段を登っていかなければなりません。現在は補修工事中とのことで、参拝はできませんでした(追記:現在は工事が完了しています)。
中村神社で祀られている祭神について。
相馬中村城跡と相馬神社
相馬中村城跡や相馬神社に行くには別な山道を少し登ります。
これは黒橋と呼ばれる橋で、言い伝えですが過去にここから身を投げて自殺した姫がいるとのことで、地元では有名な心霊スポットになっています。
確かにここから飛び降りたら即死しそう。
石段を登っていくと相馬神社があります。
相馬神社の裏には古井戸があります。これは旧相馬中村城跡で使われていた古井戸でした。
これも伝承として聞いた話ですが、戊辰戦争で相馬藩が新政府軍に敗れて降伏した時、この古井戸に身を投げて自殺した武家の女性がいると聞きました。現在は金網が張り巡らされて、小さなほこらが置かれています。こちらも地元の心霊スポット。
こちらが相馬中村城の跡地。ご覧の通り基礎の石組み以外は何も残っていません。かつて相馬中村城は天守閣も持った大きな城でしたが、江戸時代の1670年に落雷があって焼失しています。
天守の再建計画も立てられたのですが、当時の相馬藩の藩主相馬貞胤が「城を建て直して領民の暮らしを圧迫するよりは城がなくても良い」と話して再建計画は実行されませんでした。この時の貞胤公を名君として敬っている人も地元にいます。
相馬藩は戊辰戦争の時は奥羽越列藩同盟に加わりました。その際に会津藩は相馬藩に戦費調達の事実上の脅迫を行うのですが、その辺は「八重の桜」では描かれていなかった…。相馬藩は列藩同盟と共に太平洋方面に上陸した新政府軍と銃撃戦を繰り広げることになります。
新政府軍の圧倒的な火力を前に、列藩同盟の軍は前線を放棄して逃走を開始。相馬藩は単独で新政府軍と戦うことになります(「浪江の戦い」など)。相馬藩の部隊が散り散りとなり相馬藩が降伏する可能性が出てくると、列藩同盟の軍は相馬を包囲して降伏しないように迫ります。
相馬藩の重臣会議で降伏が決定。新政府軍が相馬中村城跡に入ることになります。新政府軍は相馬藩に対して、新政府軍駐留の食糧や金銭などを全て負担すること、相馬藩士は先陣に立って仙台への道案内や仙台藩攻撃の先兵となることを要求します。
相馬中村城跡には臨時の野戦病院が開設されます。相馬藩が今度は新政府軍の先陣となって仙台藩ら列藩同盟の軍勢と藩境付近で激しい戦いを繰り広げます(「駒ヶ嶺の戦い」)。城内に設置された病院には負傷した相馬藩士や新政府軍の藩士が続々と運ばれて、相馬藩が救護活動を行うことになります。この時に戦士した新政府軍の身元不明の遺体は相馬の寺の墓に埋められることになりました。
奥羽越列藩同盟は戦闘を長期化することでプロイセン(ドイツ)と手を組むことを模索していましたが、相馬藩の降伏で仙台藩を直接攻撃できるようになり、さらに新政府軍の中で会津攻略を担当していた板垣退助の部隊と合流して会津への総攻撃を開始します。これにより奥羽越列藩同盟は崩壊。会津藩や仙台藩は降伏することになります。
戊辰戦争の戦いによって相馬藩の財政は崩壊。相馬藩と仙台藩の藩境であった駒ヶ嶺は一時的に南部藩が治めることになります。相馬は東北の貧しい地域として明治・大正・昭和を歩むことになります。明治時代には多くの旧相馬領民が北海道開拓事業に加わっています。
相馬城跡につながるもう一つの橋。赤橋。
赤橋の下には第二次世界大戦中に掘られた防空壕の跡が残っています。今は閉鎖されていますが、私の子供の頃はまだ中に入ることができる状態でした。
相馬が空襲を受けることはありませんでしたが、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きる前にこの防空壕が市内の信者の密会場所と修行場として使われていました。その市内のオウム真理教の信者の中には私の小学校時代の先生も含まれていました。担任の先生ではなかったですが、すごく真面目で優しい先生だったと記憶していて当時は衝撃を受けました。
相馬市の中心部・海岸部の写真は少々お待ちを
相馬市の中心部の写真も撮影したのですが、あんまり写真をベタベタ貼ると記事が重くなるので次回にご紹介します。海岸部も民宿街が瓦礫の山となりましたが、今はだいぶ復興が進んできて、その様子も撮影してこようと思います。
こちらは相馬市内の古本屋さん。よく利用していたのですが、高校時代に仙台で買った「失禁」というAVのビデオテープを売りに行ったら、「これはチョット…、うちでは買えないですね」と古本屋のおばちゃんから言われて恥ずかしい思いをしましたw
律令国家の対蝦夷政策―相馬の製鉄遺跡群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
- 作者:飯村 均
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本