「この世界の片隅に」を仙台で見ることに決めました
まだ公開前ですが、映画「この世界の片隅に」が見たくてたまらないとTwitterで書いていたら、仙台のはてなーの方から「一緒に見に行きましょう!」と声を掛けてもらって11月の上映開始時に仙台の映画館で見てきます!
広島・呉に昭和19年にお嫁に来たすずさんを描いた映画。予告編はこちら。
昭和20年夏の状況も描かれています。どんな風に描かれているのかは映画を見ないと…。
原爆投下によって広島城付近に駐屯していた陸軍第五師団もその日のうちに壊滅。呉の病院にも続々と負傷者が運ばれ、宇島や呉の軍の部隊が救援・消火活動を開始します。爆心地付近でも消火活動を行ったために、これらの部隊からも健康被害を訴える人が続出することになります。
広島には本土決戦に備えて第2総軍の司令部も置かれていました。本土決戦のために日本陸軍は鈴鹿山系を境界線に日本列島を2つのエリアに分割し、東部を第1総軍、西部を第2総軍の指揮下としました。第2総軍は九州防衛も担当していたのですが、司令部機能が喪失して大打撃を受け独断で広島に戒厳令を発令しています。
呉には日本の原爆製造計画に携わった三井大佐もいました。広島のキノコ雲を見て赤色反応が起きていることに気づき、連合軍の発表より先に原爆の炸裂によるストロンチウムではないかと予測して35人の技術士官を調査のため派遣したという証言が残っています。
http://www.hiroshima-shinbun.com/social/soc1945080605.html
大本営もマリアナ諸島のB-29の中には数機の特殊任務機が存在すること、8月6日に特殊任務機が発信したときはすぐに情報分析活動が行われたのですが、これらのデータが繋がることがなかったのが無念です。瀬島龍三はそのことを激しく後悔していましたが。このような状況判断も含めて連合国に負けていたのだと思います。
瀬島龍三は大本営にあって堀栄三の原爆電報(特殊任務機情報)を握り潰してしまったことを激しく後悔していたと戦後に供述していますね。真実の近い情報が何であったのか判断が難しい状況ではあったけれど、大本営は特殊任務機問題に全力で取り組むべきだったと思います。 https://t.co/6jHtukkoF3
— 齊藤貴義@サイバーメガネ (@miraihack) 2016年10月28日
戦争の悲劇と戦争の感動
(「この世界の片隅に」)
戦争の悲劇を忘れないために作られた作品や反戦作品は評価が難しい面があります。
戦争の悲劇と戦争に感動することには表裏一体の部分があります。戦争の悲劇に涙しつつも、戦争のもつ破壊力や悲劇性に感動した人々を戦場へと駆り立てることがあります。
連戦連勝の報道に沸き立っていたからだけではなくて、戦争の悲劇を認識しながら「死んで帰ってこい」と出征兵士を日の丸を振って見送った人々がいた。
そのため私は戦争の悲劇や悲惨さを描いた作品も、必ずしも平和に結びつくわけではないのではないかと思い悩んだ時期があって…。
もちろん、そのメッセージ性が全く無力であると思ったわけではないのですが、戦争の悲劇を強調する教条的平和主義だけでは新たな戦争に対する防波堤とはならないことも理解していたいと思っています。
そんなことも考えながら、11月に映画を見てこようと思います。見たら感想を話し合いましょう!