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Webサービス運営の限界をハイエクの自生的秩序から考えよう

   

Qiita騒動とWebサービス運営の問題点

Qiitaが連日話題になっている。Qiita運営がプログラミングに関係ないと判断した記事は強制的に限定公開となった。運営からポエムと判断されて限定公開となった記事の数は膨大である。アレゲな人達が集うサイトでも話題となり、記事を削除されたユーザーがカウンターとしてQiitaをもじったブログテーマを公開するなどの動きも起きている。コンシューマー向けWebサービスを長くやってきた経験と社会科学の観点から広くWebサービス運営の問題点について考えてみようと思う。

yro.srad.jp

http://qiita.com/mzyy94/items/72089df3269eb6b4b1e1qiita.com

運営は非民主的な巨大権力を持っている

コンシューマ向けWebサービスにおいて、運営は巨大権力を持ってる。自分達の望むように利用規約やガイドラインを改定できる立法権がある。記事を検閲したりユーザーを粛清・抹消するなど執行権を行使できる。何が利用規約に違反しているかの判断も運営に信託されている。民主的ではなく独裁的な権力の集中である。ユーザーの権利が利用規約に盛り込まれていることもあるが、この権利は普遍的なものではなく、利用規約の改定でいくらでも制限できるものだ。

運営の前では通信の秘密も保証されていない。多くのWebサービス運営企業ではハンドルネームでの投稿や匿名投稿も誰が投稿しているかはすぐ分かる状態になっている。個人情報保護法に基づく保護が行われている場合が多いが、社内の定例会議やサポート対応などの場でもカジュアルに特定ユーザーの話題が共有され討議されることも多い(社内の笑い話になることもある)。例えユーザーがどんなに個人情報を秘匿していても、捜査当局から発信者情報開示請求が来れば明かされる程度の秘密である。

問題点が表明化して改善を求めるユーザーが団結しても、運営には響かない場合が多い(このようなユーザーの動きは運営会議で必ず話題になっている)。運営側に問題があったとしてもユーザーサポートで訴えても無力で、炎上や退会者の続出となってやっと意思決定の変更を実現できる場合も多い。運営はユーザーと運営の著しい非対称性を運営は認識する必要があるだろう。このような運営のまなざしは、フーコーが『監獄の誕生』で指摘したパノプティコンを構成するものでもある。

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(パノプティコン)

理念の称揚は平壌放送となる

Webサービスは何らかの理念を持って提供されている。その理念は崇高で気高いものが多く、もし本当に実現できたならばネットの世界に地上の楽園を実現できるだろう。しかし、Webサービスの現実は貧相で衆愚なものであり、生身の人間が集う空間は欲望や関係ない目的でドロドロしていて決して美しいものではない。

このような状況下で光あらんことを願ってWebサービス本来の理念を称揚して団結したいメンタリティは理解できるが、その発信は平壌放送となるだろう。プロパガンダとなって掛け声だけは勇ましく響き、壮大なビジョンが美しく描かれたユートピアが唱えられるが、砂上の楼閣にすぎない。

地に足をつけて、衆愚であろうとも民衆と共に歩む「人間の顔をしたWebサービス」が運営には求められている。プロパガンダではなくボトムアップを。田んぼの中に入らなければお百姓さんの気持ちはわからない。一見すると無駄であったり意味がないように見える日常の営みも、Webサービスの豊かな肥やしとなるのだ。

大規模な介入は泥沼化して頓挫する 運営の基本は停戦監視

何らかの目的をもってユーザーや投稿に運営が介入すると泥沼化する。それを「当然の沙汰」と受け取って支持するユーザーもいるだろうが、そうではないユーザーも多い。正義はユーザーの数だけ存在する。やがて大きな反発を招いて介入は頓挫するだろう。

Webサービスにもハイエクが指摘するような自生的秩序は存在する。この自生的秩序を無視して運営計画に基づく動員と成長を遂げようとするのは共産主義やケインジアンの発想である。民の力をもっと信じた方がいい。ユーザーに隷従の道を歩ませようとするのは、自由の条件に反する致命的な思い上がりである。

運営の基本は停戦監視にある。大規模介入や牽引ではなくユーザーの過度な衝突が起きた場合に限り調整することである。コミュニティ運営はユーザーの自由な判断や自治厨に任せるべきだ。自治厨が出てこないサービスはそれだけ魅力が乏しいのだろう。介入は悪しき前例となりWebサービスへの呪縛となってしまうだろう。

集産主義か自由主義か

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(フリードリヒ・ハイエク)

運営はユーザーによる自生的秩序の育成を待つべきだ。それは必ずしも自由放任を意味しない。人間の理性には限界があり運営判断もまた然りである。何が理性的で正しいか確定的な判断を下せない状況において、計画主義は人間の自由を束縛するものであってはならない。

Qiita問題で見えてきた運営の限界は、集産主義か自由主義かという20世紀の世界がかつて辿った道であったと思う。

日経BPクラシックス 隷従への道

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