クリスマスイブですね。私は今夜サーバーメンテナンス作業です。今日はそんなクリスマスにちなんで江戸時代から明治に掛けての東北のキリスト教史をご紹介いたします。
東北の禁教政策
以前の記事で東北の禁教政策について書きました。伊達政宗は支倉常長ら慶長遣欧使節団をスペインに送って交易の交換条件として仙台に司教を置くことを提案するなど、キリシタンに対して当初は寛容な方針を採っていました。このため日本全国から迫害を逃れたキリシタンが続々と仙台へ集まってきました。しかし、慶長遣欧使節団が帰国した1622年前後から仙台藩でも熾烈な禁教政策が開始されることとなります。
支倉常長の支倉家は後に隠れキリシタンの疑いが掛けられて一家断絶となりました。慶長遣欧使節の団長であったソテロは長崎で捕らえられ、火あぶりとなりました。1622年には仙台藩の金山に潜んでいた後藤寿庵や宣教師カルワリオそして信徒約60名が捕縛され、冬の溜池でつくった水牢に入れられて棄教するように迫られますが拒否し続けて凍死しました。遺体は見せしめとしてバラバラに切断され広瀬川に流されました。
相馬中村藩にも慶長遣欧使節団に参加することになるスペイン貴族ビスカイノ提督が測量のため来訪して相馬利胤が歓待するなどスペインとの交流がありましたが、相馬中村藩でも禁教政策が開始されることになりました。
天和2年(1662年)に相馬藩領内に立てられた奉行所の立て札には、バテレン(神父)やイルマン(修士)そして信徒を密告した者には褒美が与えられるとするお触れが出ていたと記録が残っています。
定
一、切支丹宗門者累年御禁制たり自然不審成者有之ば申し出づべし
御褒美として
伴天連の訴人 銀五百枚
伊類まんの訴人 同三百枚
立者の訴人 同 断
同宿並宗門の訴人 同百枚
右之通可下之縦同宿宗門之内よりと雖訴人に出る品により銀五百枚可被下之隠置者他所より現はるるに於ては其所之名主並五人組同類共に可被処厳科者也
天和二年五月 日 奉行
信徒の発見と仙台藩士・黒川市之丞
このような熾烈な禁教政策により東北地方のキリシタンはほぼ根絶やしにされました。しかし、完全に途絶えたわけではありません。
幕末になって日本が開国したとき、長崎の大浦天主堂に赴任したベルナール・プティジャン神父の前に浦上村の人々が現れ「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と信仰の告白を行いました。厳しい禁教政策を生き延びた信徒の発見は欧米諸国でも大々的に報じられました。
この長崎の浦上村の中でも木場(三山)地方には言い伝えが残っており、言い伝えによると慶長遣欧使節団としてスペイン・ローマから帰ってきた仙台藩士の松尾大源・黒川市之丞らが仙台藩を逃れてこの地に潜伏したと言われていました。木場に住んでいるのは彼ら仙台藩士の子孫であると言われていました。木場地方の人々は中国製の観音像をマリア観音として隠し伝えていました。
長崎奉行は浦上の信徒らを密偵して捕縛し、拷問に掛けて棄教を迫りました。その頃の1867年に木場地区でも木場三番崩れと呼ばれる弾圧が行われ、125人が捕縛されました。欧米諸国の抗議で明治になって彼らが解放されるまでに55人が獄死することとなりました。
このような殉教がありながらも、仙台から伝えられたキリスト教の教えは長崎の地で残された信徒によって受け継がれることとなりました。
沢辺琢磨という人物
長崎へと逃れた松尾大源・黒川市之丞のような貴重な例外がありながらも、禁教政策のもとで東北ではキリスト教の空白時代が続きました。その東北でも幕末になると新たな伝道史が始まります。
沢辺琢磨という人物をご存じでしょうか。ニコライ堂でも有名な日本ハリストス正教会の最初の信徒で、日本人で初めて司祭となった人物です。旧土佐藩士で坂本龍馬の従兄弟にあたります。この人物が東北のキリスト教に大きな影響を与えることになります。
山本数馬(沢辺琢磨)は土佐藩士の山本代七の長男として生まれました。山本代七の弟の山本八平は坂本家の婿となり坂本姓に改名、その子どもが坂本龍馬であり、沢辺琢磨と坂本龍馬は従兄弟の関係です。
沢辺琢磨は剣術に優れ、江戸に出て鏡心明智流の桃井道場の師範代となりました。この道場にはのちに土佐勤王党の盟主となる武市半平太や「人斬り以蔵」として怖れられることになる岡田以蔵も門下生として入門していました。沢辺自身も江戸に出てきた坂本龍馬と一緒に尊王攘夷運動に奔走しました。
しかし人から奪った金時計を質に入れたことが明らかになり、罪人として捕縛されないよう江戸を脱出、奥羽越地方を転々としました。新潟で前島密(のちの近代日本郵便制度の創設者)と出会い、前島の誘いで箱館に行くことになりました。
ニコライとの出会い
箱館にはロシア正教会のニコライが礼拝堂司祭として赴任していました。ニコライは大館藩出身の木村謙斉から日本語だけではなく日本文化や日本の歴史、古典文学、儒教、仏教などを積極的に学んでいました。攘夷派であった沢辺琢磨は、ニコライは日本の武術を学ぶために沢辺琢磨に声を掛けました。
攘夷派であった沢辺琢磨はニコライこそ日本を侵略するためのロシアの密偵だとみなし、ニコライに詰問しました。返答次第では斬ることを考えていたと言われています。
日本ハリストス正教会の 『大主教ニコライ師事蹟』によれば、沢辺琢磨は「爾の信ずる教法は邪教なれば、爾は我国をする者にあらずや」と問うたとされています。ニコライは「さればなり、貴君はハリストス教の事を能く識り居らるるか」とキリスト教の教えを知っているかと逆に質問しました。さらに「未だ自ら識らざるのハリストス教を、何故に憎むべきの邪法教と名けらるるか、もし自ら識らずんば、これを研究して、然る後に正邪如何を決すべきにあらずや」と問い返しました。まずはキリスト教を知ってから邪教かどうかを判断したらどうかと諭したわけですね。
これに一理あると考えた沢辺琢磨はニコライの元でキリスト教を学びました。そしてキリスト教の教えに目覚めていきます。この頃にアメリカへ密出国しようと箱館を訪れていた新島襄(のちの同志社大学創始者)に英国商人ポーター商会に勤める福士宇之吉を紹介するなどの手助けしました。1864年、王政復古により箱館奉行が更迭となり新しい箱館奉行によるキリスト教弾圧の噂が高まると、極秘裏に洗礼を受けて日本ハリストス正教会の最初の信徒となりました。
東北への伝道と司祭叙聖
1868年4月、沢辺琢磨は海を渡って八戸から東北地方に入り、伝道活動を開始しました。5月には奥羽越列藩同盟が成立し、沢辺琢磨は西国訛りがあったため南部藩と仙台藩の藩境の関所で薩摩の密偵の疑いが掛けられて捕らえられ投獄されました。その後、箱館へと帰還。箱館で戊辰戦争の最後の決戦が行われたときには仙台藩士の金成善兵衛らに教えを説き、金成善兵衛らはキリスト教に改宗しました。
戊辰戦争後、沢辺琢磨は仙台藩の士族に向けて国家の復興のためには人心を新しくする必要があると説きました。「国家の恢復を謀らんがためには、人心の帰一を期せざるべからず、人心の帰一は真正の宗教に依らざるべからず、人民にして真正の宗教を信せば、人心の統一を得べく、人心統一せば何事か成らざらん、もしそれ、国家を憂ふるの赤心あらば、速に来函すべし」。
沢辺琢磨は東京そして再び仙台へと渡り布教活動を開始します。しかし、仙台でキリスト教への迫害が起こり沢辺琢磨らは捕縛されて再び投獄されました。仙台藩士らが外務卿の副島種臣や太政官顧問フルベッキらに懇願してようやく釈放されます。沢辺らは再び東北での伝道活動を再開して信徒を増やしました。
1875年にニコライは東京で第1回の公会議を招集して沢辺琢磨を司祭候補とし、その後、パウェル主教によって日本人で最初の司祭に叙聖されました。司祭となった後も東北地方への伝道を積極的に行いました。現在でも東北には日本ハリストス正教会の聖堂が仙台だけではなく宮城県石巻市・宮城県加美町・宮城県栗原市・宮城県登米市・宮城県東松島市・福島県白河市など各所で受け継がれています。
ニコライ堂建設を巡っては莫大な建設費用を貧窮する伝道師のために使うべきだと反対して一時期ニコライと対立しましたが、その後は建設に協力して「宮城(皇居)を見おろすような高い聖堂を建てるのは不敬である」と右翼が訪れたときには沢辺が追い返したと言われています。
東北とキリスト教
東北でのキリスト教の伝道にはこのような苦難の歴史がありましたが、現在も連綿と受け継がれています。
私はクリスチャンではありませんが、自らの危険をかえりみずに人々の心の救済を説いたこれらの偉人達は立派だったなと思います。
参考
- 作者:藤代 泰三
- 発売日: 2017/11/11
- メディア: 文庫